みなさんこんにちは。前回からの続きです。
ラストランが迫った日本で唯一の多扉車(たとびらしゃ)「京阪電車5000系」と、全国的にも朝ラッシュ時の混雑が著しかった京阪沿線において、昭和30〜50年代に行われた旅客輸送対策のために行われた事業を、時系列に取り上げるということをしています。
1972(昭和47)年着工の「土居〜寝屋川信号所間高架複々線化工事」、その要となった地上の「守口市仮駅・仮線」について、あれこれと掘り下げています。
仮駅の使用開始は1976(昭和51)年、高架複々線化が完成し、現在の高架駅へ移設されたのは1980(昭和55)年。
その4年の間、地上仮駅から延びる仮線は先行して開通していた京都方の高架線へと、仮設の土盛り築堤でアプローチしていました。
上下合わせて4線もの仮線が、先行開通の高架線に接続していたということで、かなりの規模だったことが窺えるのですが、かつての切り替え地点は現在はどのようになっているのか、あわよくば?なにか痕跡が遺されてはいないかと気になります。では、善は急げです(笑)
赤い□で図示した場所がそのようで、直下にやって来ました。現在は百貨店駐車場、東からの入場ゲートが設けられています。
右側の建物は、平成に入ってから建設されたもの。ということは、本題の当時には存在していないものなのですが…
その奥側、フェンスで仕切られた高架複々線の南側に不自然な形の出っ張りを見つけました。
よくよく観察しますと、架線は張られてはいないものの、架線柱もこの出っ張りの真下に沿ってつくられている、つまり、実際に使用されていたということがわかります。
さらに、駅前後で激しい混雑を呈していた踏切道もすべて除却され、線路で南北に分断されていた街の行き来も容易くなったので、大きな意義のある高架複々線化だったと言えます。
車窓から見える、なんでもない光景に、いろいろと掘り下げて行きますと、さまざまな経緯があったのだなと感じた次第です。
そして、高架複々線はまだこの先、京都方面へと続きます。
(出典「記念誌 クスノキは残った 土居〜寝屋川信号所間高架複々線化工事の記録」京阪電気鉄道株式会社編・刊 1983年)
次回に続きます。
今日はこんなところです。