皆様こんばんは。ブログおよびホームページ管理人の神@北見です。

 

先日はフォロワーさんの画像投稿写真より、非常に貴重な車両の形態が明らかになりました。まずはこの場を借りてお礼申し上げます

 

千葉地区では急行列車の正面にヘッドマークを取り付けていましたが、キハ17系の時代から大型のヘッドマークで幌もしくは幌枠に固定するタイプでした。しかし1969年7月の内房線電化で電車急行が設定されると貫通ドアに収まるサイズのものが採用され、恐らくこの頃以降より気動車急行についても同タイプのやや小型のものに変更されました。ただし電車用は六角形であったのに対し、気動車用は角の丸い逆台形状のものでした。

 

電車の場合は初期の153系を除き貫通ドアに手すりが設けられておりこれに引っ掛けることになりましたが、気動車では貫通ドアにこのような手すりはありません。そこで1969年の千倉電化以降も残ったキハ58系・キハ55系については貫通ドアに電車用に類似したヘッドマークステイを装備するようになりました。

 

↑貫通ドアに千葉ヘッドマークステイを残すキハ28 5511(元2177)

 

↑電車の写真が極端に少なくスミマセン。再掲です。千葉の急行用気動車に取り付けられたのは基本的に電車用と同じものです。

 

千葉地区では房総各地の海水浴輸送用に夏季になると各地より急行気動車を借り入れが行われており、1970・1971年度に借り入れが行われた車両についても同様にヘッドマークステイの取り付けが行われました。この借り入れは「転属」扱いとなっており転属日時が記録に残っていますが、このような一時的な転入車に対してもヘッドマークステイを付けるその徹底ぶりは凄いなぁと思いました。

 

千葉地区は概ね平坦な地形であることから昔から1エンジンのキハ26・キハ28が大半を占めており、2エンジンのキハ58の配置は殆どありませんでした。そのような中、唯一借り入れ以外で長期間千葉に在籍した2エンジンのキハ58が、105番になります。

 

キハ58 105は和歌山に新製配置されましたが、1964年に長大編成対応の559・560・564・571~574が新製配置されると押し出されるように水戸に転じ、1965年には夏季輸送で千葉へ出張後大分に転じ、そして1966年には2エンジンンのキハ58では珍しく千葉へ転じました。そして千葉では外房電化の1972年7月まで活躍し、電化後は水戸に転じました。水戸ではキハ58は主に磐越東・西線系統の急行「いわき」「あがの」で使用されましたが、1980年10月のダイヤ改正で四国から大量の冷房車が水戸に転入すると非冷房の当車は盛岡に転じ、急行の他キハ55系の置き換えで普通列車でも使用されました。「60-3改正」では急行「陸中」の冷房化が行われ冷房車が転入すると当車は弾き出され弘前に転じますが、1986年3月の大規模な車両転配で弘前には大量のキハ48、キハ22が転入し、キハ58の若番車は整理され当車も廃車になりました。

 

↑キハ58 105は以前は千葉時代(1972年)の形態しか分かりませんでした。冬季に2エンジンのキハ58がヘッドマークを掛けて走っている姿でしたのですぐに「105」であると分かりました。渡り板にも番号書いてありましたので確実です。

 

しかし盛岡転属後の姿は見たことが無く、上の状態のままということは無いでしょうから非常に気になっていた車の1両でした。そして今回新たな情報を基にアップデートしたのが…

 

↑1984年頃の山田線での姿とのことです。色々変わっていますが出自を残すものも多く、盛岡の中では非常に異質な車両です。ポイントとしては…

 

・千葉時代のヘッドマークステイは、下の物が取れてしまっていますが、上のものは残っていました。

・水戸時代に大型の「架線注意」の札が付けられました。水戸にいた名残を残しています。

・そして盛岡時代には注意喚起で正面窓上の手すりに警戒色の板が取り付けられました。

・デフロスタが付きました。水戸では取り付け座が左右にあるタイプを付けることが多かったですが、当車は通常の上下に座があるタイプです。

・ワイパーが強化型のWP50に改造され、正面窓下の手すりが下がっているのは盛岡の特徴です。

・前面補強はされていないようです。

・タイフォンは盛岡では珍しくシャッター・蓋無しのスリット式のままです。

・放送ジャンパKE66の栓納めは千葉時代のままの位置にあります。盛岡では足掛けの上へ移設する車が多かったですが当車は同工事が施工されていません。

 

↑小牛田にいた元水戸のキハ28 2384です。水戸ではこのように通常より大きいサイズの「架線注意」札を付けている車が見られました。

 

↑新津にいた元水戸車のキハ28 2168です。水戸ではデフロスタはキハ20系用と同じく左右に取り付け座のあるものを付けている車を多く見ました。逆にこのタイプのデフロスタであれば元水戸車であると推測出来ました。しかし水戸でも通常の上下に座が付いているものを付けている車もいました。キハ58 105も通常の形状のデフロスタを付けています。

 

↑盛岡や郡山ではこのようにワイパーの強化型への改造時に干渉を避けるため手すりを下げる車が多く見られました。キハ58 105も同じ形状になっています。

 

このように、新たに情報が入ったキハ58 105は、その転属歴を残した顔になっていました。一つ予想外だったのはタイフォンがシャッター無しのままであったことです。同時に水戸から盛岡へ転じたキハ58では、「28」は回転蓋式に、「92」はシャッター式になっていました。「105」のようにスリットカバーのままの盛岡車は当車以外見たことがありません。

 

ということで1980年代から2000年代まで、キハ58系各車は様々な改造や改修を受けて細かなところまで色々と形態が変化してゆきました。よってある時点でその形態を記録しても、そのちょっと昔や後には形態が変わっている可能性があるということになります。これがキハ58系形態を記録する上で非常に悩ましい点で、昔の自分は一度その車両の記録をとったらそれで終わりにしていました。しかしこのように見てみると1両の形態でも連続して記録する必要もあることが分かりますね。そうするとキハ58系の形態は無限に…、あぁ頭が痛いです。

 

そして今回の情報は私の記事を読んでくださっているフォロワーさんがキハ58系の写真を投稿してくださったおかげで見つけることが出来ました。実車は既にほぼ絶滅状態ですが、まだ未確認の120両は恐らく日本中のどなたかが大昔のいつかどこかで撮影している可能性があります。今後も地道に調査研究を続けてゆきたいと思いますのでよろしくお願いいたします。

 

今回も最後までご覧いただきありがとうございました。それでは次回もお楽しみに!!

 

是非私のホームページ

 

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にもキハ58系各車の解説がありますのでご覧になってください。