とわだこ号とみずうみ号で十和田湖・八甲田連峰を縦走~小説と映画に描かれた八甲田山とのゆかり~ | ごんたのつれづれ旅日記

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昭和63年の初夏に十和田湖から八甲田山系を通り抜けた旅のことは、30年以上も前のことでありながらも、鮮烈に覚えている。

 

 

──と、言いたいところなのだが、覚えているのは盛岡から十和田湖に向かう高速バス「とわだこ」号と、十和田湖から青森へ向かう路線バス「みずうみ」号の車中ばかりで、何に乗って盛岡に行ったのか、という初っ端の記憶が完全に欠落している。

 

数ある交通機関の中では、新幹線を利用した可能性が最も高いような気がしないでもない。

僕が東北新幹線に初乗りしたのは昭和59年のことだった。

生まれて初めての東北旅行を目論んで、往路は上野発の583系寝台特急電車「はくつる」で早暁の盛岡に着き、東北本線の上り普通列車で平泉、松島に立ち寄りながら仙台まで折り返してから、上り「やまびこ」に乗り継いで、当時は大宮止まりだった東北新幹線を体験したのである。

ところが、その直後から僕は高速バスに魅入られてしまい、速くて便利だけれども、高価な新幹線に乗る機会が減ってしまった。

 

この十和田湖旅行の時代には、東北新幹線の起点は大宮でなく上野になっていて、友人との北海道旅行の途上で上野から盛岡まで乗り通したことはある。

しかし、記憶の底を幾らまさぐってみても、僕1人で、上野駅の地下ホームから盛岡行きの新幹線に乗り込んだ覚えがないのである。

 

 

ならば、高速バスを利用したのではないか。

東京と盛岡を結ぶ高速バス「らくちん」号が開業したのは昭和63年で、僕が十和田湖に出掛ける前後である。

この時期は、首都圏から東北地方にかけて雨後の筍の如く高速バス路線が登場していたが、どの路線も、旅の行程は比較的明瞭に記憶に留めており、十和田湖の旅で東京から高速バスを使っていないことは断言できる。

 

東北新幹線が開業した後もしばらく残っていた夜行列車を利用した可能性はどうかと言えば、前述した初めての東北旅行こそ寝台特急を盛岡で下車したものの、その後、高速バス「らくちん」号の下り昼行便に乗車した帰路に盛岡から寝台特急を利用したことがあるだけで、下りの寝台特急を盛岡で下車したことはない。

 

 

航空機は、と言えば、当時の僕は新幹線以上に空路を忌避していたし、そもそも、羽田空港と、盛岡に最寄りの花巻空港を結ぶ航空路線は、東北新幹線に客をさらわれて昭和60年に廃止されている。

この旅で羽田と三沢や青森を結ぶ航空路線を使った記憶もなく、もしも青森県内まで空路を使ったならば、盛岡-十和田湖-青森という経路ではなく、逆方向に進むのが順当であろう。

 

 

ふと、悪魔の証明、という言葉を思い出した。

 

「この世には悪魔など存在しない」と主張するならば、それを証明せよ、という意味で、要するに証明が不可能な事柄のことを指す。

証明すべき対象が存在するならば、対象を見つける、つまり物的証拠を提示することによって証明できるけれども、存在しないことを証明するとなれば、証拠がないと言うだけでは存在を否定することにならず、単に未発見であるだけかもしれないので、有効な証明とは言い難い。

 

僕の十和田湖旅行は、東京から盛岡への移動手段について、あれも違う、こちらの筈もない、と否定的な方法ばかりが明快に証明されてしまい、肝心な事実が思い浮かばない、という点で、悪魔の証明とは真逆である。

ただ、もどかしさだけが共通している。

単純に、僕の記憶が衰えた、という証明にはなるようである。

 

医師の世界では、除外診断という方法がある。

患者の病状について確定診断が困難な場合に、臨床情報を集めて、この疾患ではない、この臓器が原因ではない、という鑑別診断を重ねた上で、証明は難しいけれどもこの疾患である可能性が高い、と否定しきれない疾患に対する治療を開始することを指す。

この旅は、除外診断を行ったら、盛岡へ行く手段が何1つ該当しないことになってしまった、という情けない結果であるけれども、とにかく昭和63年の初夏の週末、僕が盛岡駅前でバスを待っていたことだけは間違いない。

 

 

僕が乗り込んだのは10時50分発の十和田湖行き「とわだこ」75号で、岩手県交通の担当便だった。

如何にも、朝に東京を発つ東北新幹線でやって来ました、と言わんばかりの時間帯であるけれど、記憶は蘇って来ない。

 

この路線は、毎年4月から11月まで運行する季節路線であった。

東北新幹線の接続便として昭和57年に開業した「とわだこ」号は、東北自動車道を走る高速バスとして最も初期の路線で、僕が乗車した当時に盛岡駅を発着する他の高速バス路線は、昭和57年に開業した盛岡-大館線「みちのく」号や、昭和60年に登場した盛岡-弘前線「ヨーデル」号、昭和62年に開業した盛岡-青森線「あすなろ」号が存在したに過ぎず、後の平成元年に盛岡-八戸線「ハッセイエクスプレス」号も登場しているけれど、この旅の時点では、どれも未乗であった。

 

 

盛岡以北の東北道を初めて通ることになるので、どのような車窓なのだろう、とわくわくする。

 

雫石川に沿って西へ進み、盛岡ICから盛り土の高速道路に駆け上がれば、広大な田園地帯の彼方に岩手山の秀麗な山容が目に入る。

田植えを終えたばかりであろうか、青々と稲が繁る水田のあちこちで農作業をしている人々の姿が見受けられる。

木々の緑も色合いが鮮やかで、東北の夏が近づいているのだな、と思う。

 

東京と青森を結ぶ東北道が全線で開通したのは昭和62年であるが、盛岡以北では、三沢、八戸方面に向かうJR東北本線とは異なる経路を採っていて、JR花輪線に沿って北西方向に向かい、大館、弘前に抜ける。

安代JCTで八戸自動車道を分岐してからは、八幡平の山裾に沿って西へ針路を変え、峻険な奥羽山脈の懐に分け入っていく。

古くからの鉄道地図が頭に植えつけられている者としては、どうしてそのような廻り道をするのだろう、と首を傾げたくなるけれど、地図を見れば、東北本線の方が東へ迂回する線形になっているようで、東北道の方が、盛岡と青森を結ぶ直線に近いことが一目瞭然である。

東北本線が完成した明治24年と、東北道を建設した現代との建設技術の差が、奥羽山脈に足を踏み入れる可否を左右したのであろうか。

車と鉄道の登坂力の違いもあるかもしれない。

 

 

東北道の盛岡以北と並行している花輪線の建設が開始されたのは大正11年で、東北本線から分岐する好摩駅と陸中花輪駅の間が開通したのは昭和6年、陸中花輪駅から奥羽本線大館駅までを大正12年に開業させていた秋田鉄道を国有化し、花輪線に編入したのが昭和9年であった。

花輪線は奥羽山脈の北部に踏み込む山岳路線で、急勾配が多いことから、運用される気動車列車は全車両を動力車にする必要があったと言われている。

かつては盛岡と秋田を結ぶ急行「よねしろ」や、上野と大鰐を結ぶ急行「みちのく」、仙台と弘前を釜石・宮古を経由してから花輪線に乗り入れる準急「さんりく」、東北新幹線と接続して盛岡と大舘を結ぶ快速「八幡平」が運転されていたが、東北道の開通で高速バスに利用客を奪われ、今では1~4時間に1本程度の普通列車だけが行き交う閑散線区に成り果てている。

 

東北道の建設も、決して安易であったのではなく、岩槻-宇都宮間で東北道が最初に開通したのは昭和47年、その後営々と延伸したものの、「とわだこ」号が走る盛岡IC-十和田IC間は、峻険な地形のために最後まで完成がずれ込むことになる。

浦和ICと盛岡ICの間は昭和52年に、碇ヶ関ICと青森ICの間は昭和55年に完成していたものの、盛岡IC-鹿角八幡平IC間が開通したのは昭和57年、鹿角八幡平IC-十和田IC間の開通は昭和59年、十和田ICと碇ヶ関ICの間が開通して浦和-青森間が繋がったのは、起工から14年を経た昭和61年のことであった。

川口JCTと浦和ICの間が昭和62年の最後の開通区間であるから、山岳区間よりも、人口が密集して土地の取得が難しい都市部の方が建設が困難になっていたのだな、と思う推移である。

 

東北道は、総延長679.5kmと我が国で最も長い高速道路であるけれど、トンネルの数が非常に少ない。

川口JCTから盛岡ICまでのトンネルの数は3本に過ぎないが、盛岡ICから大鰐弘前ICまでの僅か131.6kmの区間では、実に14本ものトンネルが穿たれている。

 

 

東北道が八戸道と分岐する安代JCTは、花輪線の荒屋新町駅の近くであり、そこまで安比川の流れに沿って北上する区間は、比較的平坦である。

安代JCTから先の東北道は、トンネルまたトンネルの繰り返しになるけれども、田山、兄畑、湯瀬といった花輪線の駅が置かれた米代川流域の集落がある山間の狭い平地に出ると、高架になって山中から顔を出す。

 

兄畑と湯瀬の間に、岩手県と秋田県の県境が引かれている。

東北道は岩手県から秋田県をかすめて青森県に向かうため、花輪SAと十和田ICは秋田県内に置かれている。

 

盛岡駅を出て1時間20分足らずで、「とわだこ」号は花輪SAに滑り込んだ。

およそ5分間の休憩とともに、ここのバスストップで最初の降車扱いをするのだが、利用客はいなかった。

バスを降りて身体を伸ばすと、駐車場を囲む緑の木々を震わせる風が爽やかだった。

 

 

このあたりは火附森と呼ばれ、南北に細長い花輪盆地の東側の山際に当たる。

由来が気になる地名であるが、その中腹に高速道路が敷かれた山の名前であったのかもしれない、と思う。

東北では、黒森、二ツ森、三森、七ツ森、高森、笹森、天狗森、、月山森、観音森など、「森」の名をつけた山が数多く見受けられる。

 

小松左京のルポ「妄想ニッポン紀行」の「東北」の章に、次のような一節がある。

出羽三山から山形市へ向かう国道112号線の六十里越に差し掛かったあたりでの、車中における小松氏と同行の編集者の会話である。

 

『「あの山を何と言うか知ってるかい?」

 

赤川沿いに山中へつめて、梵字川の落合にさしかかるあたりで、正面にちょっと見える山をさして私は聞いた。

 

「知りません。何て言うんです?」

「黒森山さ」

「それがどうしたんです?」

「このもう少し先、これから真如海上人のミイラを見に行こうとしている湯殿山大日坊のあたりで東の方に見える山も黒森山さ」

「同じ名の山が2つ、そんな近くにあって、登山客のガイドにゃ不便でしょう」

「2つどころか、これから寒河江へ抜ける六十里沿いに同じ“黒森山”ってのがあと3つある」

「合計5つですか?そりゃ驚いた」

「5つどころじゃない。この月山周辺だけであと3つある。昨日走った最上川の古口って所の北にもあった。山形県下だけで、黒森と名のつく山は11ある。黒森というのは、東北で1番多い山の名じゃないかな。東北全部で四十いくつあるよ。それが不思議な事に、隣接する新潟、関東地方にはない。東北地方も北の方に偏っていて、最も多いのが、山形、秋田の中央山領だ。北の方へ行くと、“山”が抜けて“黒森”だけになっているのが多い。“黒森”の次に多いのが“大森”“高森”“ツクシ森”“笹森”で、“大森”も三十いくつあったんじゃないかな。“大黒森”なんてのもあるしね」

「どういうことなんですかね?」

「わからん。どうも北方ゲルマンの森(ヴァルト)のように山を“モリ”と呼ぶ呼び方が、東北には古くからあったんじゃないかな。東北北部諸県に“……森山”という名のつく山は、それほど数え切れないほどあるのに、これだけの山国でいながら、他の地方にはほとんどない。かろうじて例外は“飯盛山”だが、これもこちらが本場かも知れん。その同名山の多さは“茶臼山”に匹敵する」

「“モリ”ばっかりですか?“カケ”はないんですか?」

「まぜっかえすな。それから見ても、山を“ヤマ”と呼ぶ呼び方と、“タケ”と呼ぶ呼び方と“モリ”という呼び方の3系統の言語圏があったんじゃないかという気がするが」』

 

人の住まない山、神の住む山を「森」と呼ぶ場合が多いらしく、神社を鎮守の森と呼ぶ風習や、死者の魂が山に籠って浄化され、神が宿る高山に登るという山上他界の信仰と絡めている文献もある。

「山は隔て、海は結ぶ」という言葉がある。

海は船が通じる水路として遠隔の地を結ぶ役割を果たす一方で、山は、陸上交通の障害となって隣接する地域を隔ててしまう。

近代的な交通網が整備されるより前、山1つ隔てるだけで文化や言語、民族が異なっていることも珍しいことではなかった。

山は境界である、との概念が発展したのか、神域を表す常世と、現世の境としても、山々は畏れ、崇められる対象だった。

同時に、狩猟の場であり、植物や木材、鉱石などといった自然の恵みをもたらし、何よりも農業に不可欠な水をもたらす水源として、山に対する信仰は根強く、春になると山の神が里に降りて田の神となり、秋の収穫を終えれば山に帰る、という信仰も存在する。

太古から、人間にとって、山と森は一体化していたのだろう。

 

花輪SAを出ると、間もなく「とわだこ」号は十和田ICで東北道を降り、国道103号線を北へ向かう。

国道103号線は大館から鹿角を経て青森に向かうが、大館と鹿角の間は国道104号線と重複しているので、実質は鹿角と青森を結ぶ道路と考えて良いだろう。

「とわだこ」号は花輪市街を横断すると、エンジン音を高鳴らせて、発荷峠を登る九十九折りの山道に挑み始める。

東北道から国道103号線への道路の変化は、運転手さんが道を間違えたのではないか、と勘違いしてしまうくらい劇的であるが、若い運転手さんは高速道路よりも生き生きとして、身を乗り出すような姿勢でハンドルを勢いよく回している。

 

 

この道には、陸中花輪駅と十和田湖駅を結ぶ国鉄バス「十和田南線」が運行されていた。

 

「十和田南線」は、昭和8年から青森駅と十和田湖畔の休屋、和井内を結び、昭和9年に花輪線の毛馬内駅まで延長された省営バス「十和田線」が前身である。

太平洋戦争中は不要不急路線として運休したものの、戦後に再開し、昭和27年に陸中花輪駅-大湯温泉系統が、昭和36年には大館と十和田湖を直通する系統が運行を開始、バス指定券制度が導入されて「とわだこ」号という愛称になった。

全国のみどりの窓口で指定券を発券する際には愛称が必要で、鉄道でも、優等列車だけでなく、指定席車両を連結した普通列車や快速列車に愛称をつけることが通例となっている。

盛岡と十和田湖を結ぶ高速バスも、「十和田南線」から派生した系統として誕生したことから、愛称が同じになったようである。

 

僕が乗っているバスは、JRバスではなく岩手県交通であるけれど、東北道と十和田湖を結ぶ国道103号線は、運転手さんにとって馴染みの道なのかもしれない。

曲がりくねった登り坂の道路は、ブナやダケカンバ、杉がぎっしりと立ち並ぶ樹海を縫って、ぐいぐいと高度を稼いでいく。

 

 

十和田湖は、火山の山頂部に水が溜まったカルデラ湖である。

最初に十和田火山が噴火活動を始めたのは約160万年前のことで、40万年の空白期を挟んで、22万年前から活動を再開している。

特に規模が大きかった1万5000年前の噴火では、大不動火砕流や八戸火砕流と呼ばれる火砕流が、現在の青森市街まで達したという。

 

最も最近の噴火は延喜15年(915年)に記録され、 この噴火は過去2000年間の我が国における最大の規模であったらしい。

現地でこの噴火を記録した古文書は見つかっていないが、京で記された「扶桑略記」には、朝日に輝きがなくなり、月のようだったと書かれている。

この噴火により発生した毛馬内火砕流は、火口の周囲20kmを焼払い、噴出した火山灰は東北地方を広く覆って、甚大な被害をもたらしたと推定される。

火山の東側は火山の噴出物で覆われ、季節風に流されて西側に降下した噴出物は、火山砕屑物が泥流と化すラハールとなって米代川を流れ下り、流域の集落を埋没させた。

一方で、噴出物により広大でなだらかな砂地が形成され、人間の居住に適した環境が整ったという説もある。

 

それ以降は噴火の記録がないものの、十和田火山は未だに監視対象から外されておらず、大規模な噴火が起きた場合は火砕流が岩手県北西部を含む最大30km圏に達し、火山灰や噴石は更に広範囲に被害を与えるとのハザードマップが公表されている。

発荷峠は、言わば十和田火山の外輪山に当たるが、「とわだこ」号の車窓に映る緑豊かな木々を眺めていると、火と灰と岩と泥に襲われた土地が美しく穏やかに変貌していることが不思議であり、自然の復元力に驚嘆するより他はない。

 

 

標高631mの発荷峠を越えて下り坂に差し掛かると、木々の合間に突如として十和田湖が一望のもとに開け、僕は思わず息を呑んだ。

高速バスの車窓で、これほど鮮やかな車窓の変化を、僕は体験したことがなかった。

 

明治期に、秋田県の言論人が地元の景観の美しさを東京の新聞に掲載して貰おうと記者団を招聘したことがあり、発荷峠では、記者の1人が、

 

『うつらうつらと再び馬睡を催す時、前なる人の「あ」と叫ぶに驚きて瞳を放てば、大湖當面にあり、蕩として碧落に横う。我は始めて其名に焦れし十和田湖を見つるなり、湖畔には山連なり、遙かに一峰に秀づるを八甲田山とす、水に一舟泛ばず又波の光無し、唯晴煙高く漂ひて水も山も見る見る一気に解け去らんとするものの如し』

 

と記し、

 

山登り盡せば樹の間に大いなる鏡の如く開く湖

 

風薫る山又山や湖高く

 

と詠った記者もいた。

 

ただし、発荷峠の道の悪さについては、

 

『左に崖高く樹枝参りてその陰冷かに、路は辛うじて一馬を進に足る。しかも泥深くして磊石所々に浮く、右は削るが如く谷をなせり唯青葉の暗く戦ぐを見るのみ其の深さ幾仭なるを知らず』

 

と書かれてしまう。

十和田湖の開発には交通路の整備が急務であるとして、大正3年に大湯から発荷峠まで車が通れる道路が完成、昭和2年に十和田湖畔まで延長されて、発動機船「南祖丸」が就航、昭和4年には十和田湖への観光客が3倍に増えたという。

 

昭和2年には、全国紙が日本八景を募集し、谷崎潤一郎や泉鏡花、横山大観といった錚々たる審査員と、1億通近い投票の結果、湖沼の部においては、発荷峠からの十和田湖の眺望が、富士五湖を抜いて堂々の1位となったのである。

 

 

峠の南側を登って来た時よりも、更にきつく感じられるカーブと傾斜を、運転手さんの滑らかなハンドルさばきで難なく下り、和井内で湖岸のT字路に突き当たった「とわだこ」号は、定刻13時05分に、終点の十和田湖駅に到着した。

 

十和田湖駅と言っても鉄道が敷かれている訳ではなく、かつては鉄道線の切符や指定券も販売する出札口を備えたバス駅である。

遊覧船が出入りする休屋港に接し、省営バス「十和田線」の開業と同時に、休屋駅として開設された。

十和田湖駅に改称されたのは、昭和55年である。

それより20年も前の昭和32年には、「十和田南線」の起終点でもあった毛馬内駅が十和田南駅に改称されており、国鉄が十和田観光に力を入れていたことが窺える。

 

 

奥羽本線の金井駅を蔵王駅に、北上線陸中川尻駅をほっとゆだ駅に、北陸本線金津駅を芦原温泉駅に、信越本線の沓掛駅を中軽井沢駅に、豊肥本線の坊中駅を阿蘇駅に、などと、鉄道でも知名度の高い観光地から名前を拝借して駅名を変更することは珍しくないけれど、僕は、消えた古い地名を惜しむ気持ちが捨て切れない。

 

地名はその土地の履歴書であり、過去にそこで起きた史実が詰まったタイムカプセルである。

土地の性状や過去の災害などを地名に残していることも多く、特に、今は廃れてしまった「字」には、崖や窪地、緩い地盤、河川の氾濫や津波など、整地で覆い隠されてしまった土地の歴史を窺うことが出来ると言われている。

不動産の売買や観光客招致などを目的として聞こえの良い地名に変えたり、「字」そのものが、行政の簡便化を図るために昭和37年に施行された「住居表示法」を契機に数多く消滅した。

それでも、東京を例に挙げるならば、原宿、御徒町、田町、汐留、田村町、高樹、溜池など、「住居表示法」で消えた町名が、鉄道の駅や道路に残っている場合が少なくない。

 

休屋は、十和田神社へ参拝する人々が休む場所、という由来であるから、駅名を十和田湖に改称しても、それほど目くじらを立てる必要はないのだろう。

バスを降りてみれば、湖上を渡って来るそよ風と、広々と穏やかな湖面に映る周囲の山並みが実に清々しく、文字通りゆっくり休みたくなってしまうのだが、次に乗り継ぐ青森駅行き「みずうみ」13号は13時40分の発車で、大して時間は残されていなかった。

 

 

「みずうみ」号は、昭和4年に個人営業のバスが青森と酸ヶ湯の間で運行を開始したのが起源で、省営バス「十和田線」は、これを買収したものであった。

戦時中に運休した後、青森と酸ヶ湯の間で運行が再開されたのは昭和20年10月と「十和田南線」より早く、昭和22年に休屋まで延伸され、昭和45年には「みずうみ」号の愛称を与えられて、バス指定券の発売が開始されている。

 

十和田湖駅を定刻に発車した「みずうみ」号は、道路にブナの枝が覆い被さる森の中の一本道をゆっくりと走る。

陽の光に照らされる葉の煌めきが、眩しく車内に射し込んでくる。

 

湖上遊覧船の港が置かれた休屋と子ノ口の間に、宇樽部という集落がある。

休屋、宇樽部、子ノ口、そして酸ヶ湯は、十和田湖と同様のバス駅である。

 

『次は、宇樽部に停まります』

 

との車内放送を耳にした僕の胸中に、不意に、懐かしい思い出が怒濤のように湧き上がって来た。

 

小学校6年生になると、担任の先生が、新田次郎の小説「聖職の碑」を教材とする授業を始めた。

国語の勉強ばかりでなく、背景となっている大正デモクラシーや白樺派文学について学んだり、単行本に掲載されている地図を用いて三角法を実践したり、文中に出てくる動植物について調べたり、社会や理科、算数に跨る内容だった。

 

ちょうどその年、昭和52年に、同じく新田次郎の小説「八甲田山死の彷徨」を原作とした映画「八甲田山」が公開され、僕らは校外授業として、クラス全員に父兄を交えて、市内の映画館に観賞に出掛けた。

日露戦争前夜とも言うべき明治35年に、青森歩兵第5連隊と弘前歩兵第31連隊が同時期に行った雪中行軍演習を取り上げた作品で、第5連隊は死者199名という世界山岳遭難史上でも最大級の遭難事件を起こすことになる。

 

 

黒澤明の映画を数多く手掛けた橋本忍の脚本、黒澤の助監督だった森谷司郎監督、撮影は木村大作、そして高倉健、北大路欣也、三國連太郎、小林桂樹、丹波哲郎、加山雄三、東野英心、緒形拳、下條アトム、前田吟、加藤嘉、森田健作、田崎潤、島田正吾、大滝秀治、栗原小巻、加賀まりこ、秋吉久美子といった豪華な演技陣を配した大作で、当時、興収成績日本一を保持していた昭和48年公開の「日本沈没」を抜く観客動員数となり、極限状態における人と組織の在り方を企業が研修の題材にしたり、登場人物の台詞が流行語になるといった社会現象を巻き起こした。

 

子供だった僕らも、我が国有数のヒット作となった映画の虜となってしまい、映画を観てからしばらくの間は、

 

「天は我々を見放したーッ!」

 

などと、劇中の場面を真似する八甲田山ごっこに夢中になったものだった。

 

 

僕にとって、その年が映画元年であった。

春先に父に映画館に連れて行かれたのが初体験で、「八甲田山」は2度目だった。

母によると、父は、しばしば独りで映画鑑賞に出掛けていたらしい。

 

初めて観た映画は「クラッシュ」という題名で、義父に殺されかけた女性の怨念がスポーツカーに憑依し無人で暴走する、という内容のB級作品で、どうして僕にその映画を見せようと父が考えたのかは今でも謎である。

テレビの刑事ドラマなどで、好きなカーアクションの場面になると、僕が身を乗り出していた様子を見ていたのかもしれない。

 

「八甲田山」は掛け値なしの大作で、幼い僕らはその重厚な作風に一発で参ってしまった。

秋に催される全校の音楽会では、級友全員が一致して映画「八甲田山」の劇場随伴曲の演奏を希望した。

音楽の先生は、作曲した芥川也寸志氏にお願いして楽譜を取り寄せ、フルオーケストラで演奏される曲をアコーディオンや鍵盤ハーモニカ、笛、鉄琴、木琴などが主体となる小学生向けにアレンジし、加えて、クラス全員にサウンドトラックを録音したカセットテープを配布する労をとってくれたのである。

 

 

第5連隊の雪中行軍の経路は、原作の一節を引用すると、

 

『青森の屯営を出発して田茂木野、小峠、大峠を経て八甲田山の東南に踏みこみ、第1日目の夜は田代温泉に宿泊し、第2日目は増沢村、第3日目の夜は三本木町に1泊して、4日目に汽車に乗って帰営するというものです』

 

と語られている。

 

増沢村は現在の十和田市域における最も八甲田寄りの集落で、三本木は十和田市の中心部に当たる。

田代温泉は、江戸時代に猟師が発見したという秘湯で、明治になって田代元湯に小屋が建てられた。

鉱山で働く者の湯治場として昭和40年代まで賑わいを見せたが、平成7年に宿泊施設が廃業、放置されていた建物も平成15年から平成24年にかけて倒壊し、唯一の道路に掛けられていた吊り橋も破損して、駒込ダムの建設により水底に沈む予定と聞く。

 

第5連隊雪中行軍隊が目指したのは田代元湯の上流にある田代新湯と言われ、映画でも、

 

「今夜は温泉に浸かって1杯だからな」

 

などと、温泉に入る楽しみで雪中行軍の辛さを紛らわす兵卒の台詞が聞かれた。

 

 

実際の第5連隊の雪中行軍は、明治35年1月23日早朝に、指揮官の中隊長以下196名と随行の大隊本部員14名から成る計210名という中隊編成で、幸畑の屯営を威風堂々出発する。

田茂木野村を経て、小峠、大峠、侒ノ木森、中ノ森、賽の河原、そして大峠から6km先の馬立場まで予定通り進んだものの、激しい吹雪に進路を見失い、物資を輸送する橇隊の大幅な遅延に足を引っ張られて、田代温泉に行き着くことが出来ず、田代まで残り1.5kmの平沢の森で雪濠を掘って露営することになる。

 

寒さに震え、壕の中で立ちんぼのまま餅を頬張りながら、下条アトム演じる二等兵が、

 

「温泉に入って1杯ってのは、こんなことか」

 

とボヤくシーンは、この映画で唯一、観客の笑いが起きたシーンであったことを覚えている。

 

2日目は行軍の継続を断念して馬立場まで戻ろうと試みたが、鳴沢付近で駒込川の峡谷に迷い込み、平沢の露営地と直線距離にして約700m離れただけの窪地で露営することになる。

3日目は馬立場まで戻ったものの、中ノ森に達したところで日が暮れてしまい、カヤイド沢の鞍部に下りて露営、4日目は中ノ森から賽の河原に達するのが精一杯で露営、5日目になると、田茂木野を目指す中隊指揮官一行と、駒込川沿いに進む大隊長一行に分かれてしまい、後者は途中の青岩付近で懸崖に阻まれ、進むことも退くことも出来なくなる。

中隊指揮官も大滝平付近で倒れ、その100m先で凍死寸前で佇立していた部下の伍長を、第5連隊が派遣した救助隊が発見し、遭難事件が明らかになったのは、その日のことである。

駒込川の近くで動けなくなっていた大隊長一行が見つかったときには、屯営を出発してから9日が経過していた。

 

映画では、凄絶な雪地獄の中を延々と歩き続けているような印象を受けたけれども、地図を見れば、たったこれだけの狭い範囲を移動しただけだったのか、と驚くと同時に、雪山で現在位置と方位を見失うことの恐ろしさに戦慄したものだった。

 

 

一方の第31連隊雪中行軍隊は、総勢38名の小隊編成で、映画における指揮官の言葉を引用すると、

 

「弘前を出発して小国、切明。切明より白地山を経て元山峠を越え、銀山、十和田湖、そして湖畔の宇樽部。ここからは犬吠峠を越え、中里、三本木、増沢。ここからいよいよ八甲田にかかり、田代、田茂木野、青森、弘前です」

 

と、踏破距離は実に224km、1月20日から1月31日までの12日間に及ぶ行程であった。

この計画を無謀と捉える者も少なくなく、提示された丹波哲郎扮する連隊長が、

 

「これはどういうこった!」

 

と驚愕する場面は、印象的であった。

 

 

第31連隊は、第5連隊が出発した1月23日に、銀山から宇樽部まで進んでいる。

銀山とは、明治期に日本一の銀の産出量を誇った小坂鉱山の町として栄え、和井内の西に位置している。

 

『1月23日、午前7時、徳島隊は銀山を出て次の予定地宇樽部に向かった。

宇樽部は十和田湖の東岸にあり、銀山は西岸にあったから、その日の行程は十和田湖を左側に見ながら湖を西から南に半周する16キロの行軍であった』

 

『当時、十和田湖周辺にはほとんど人は居なかった。

銀山を出て宇樽部まではブナの原生林であった。

宇樽部も村落といわれるほどのものではなかった。

新しく、この地に入植した開拓農家が10戸ほどあるばかりであった』

 

『十和田湖は荒れ狂っていた。

湖岸に打ち上げる水しぶきが樹木にかかって、木は氷の化石のようになっていた。

徳島隊は氷の化石の森の中を進んだ。

波の音が高くて命令も聞こえないほどであった。

波打際に近いところは、打ち上げた飛沫が凍って、つるつるの氷になっていた。

滑って歩きにくいし、波の飛沫を浴びる虞れもあったから、そういうところは森の中に入りこまねばならなかった。

雪の深さは3メートルに達していた』

 

『氷の化石の森伝いの行軍は寒くて淋しい行軍だった。

それまで3日間の行軍も決して楽なものではなかったが、この日のように淋しい行軍ではなかった』

 

 

この日の天候はそれまでになく悪化し、気温は零下10度まで低下、

 

「大暴風雪が近づいて来る前兆ではないでしょうか」

 

と、小説でも映画でも同じ台詞がこの日に発せられている。

 

明治35年1月23日は、典型的な西高東低の気圧配置になり、未曾有のシベリア寒気団が日本列島を覆って、各地で我が国の観測史上における最低気温を記録していた。

青森市でも例年より8度から10度も気温が低くなり、青森測候所の記録では最低気温がマイナス12.3度、最大風速14.3mであり、八甲田の山間部ではマイナス20度を下回り、風も一層激しかったものと推測される。

第5連隊が行軍1日目の夜を平沢森の雪壕で過ごしたその夜、第31連隊も、宇樽部の開拓農家の粗末な小屋を揺さぶる暴風雪の中で、隙間風に耐えながら、囲炉裏の周りに座って過ごしている。

 

 

次の日の行程である宇樽部から戸来村中里までは、十和田湖を東に離れて三本木方向に向かうことになり、峻険な犬吠峠を越える難関が控えていた。

 

『峠の入口で一行は雪の中を泳いだ。

沢沿いの道だから雪の吹き溜まりになっていた。

吹雪は覚悟していたが、それは吹雪ではなかった。

雪の狂乱だった。

滅茶苦茶に吹きまくり、飛雪の幕を張って視界をさえぎり、雪の渦の中に人々を飲みこもうとした。

前を行く人の姿さえ見失うような吹雪であった。

徳島隊は用意して来た麻縄で、互いの身体を結び合って前進した』

 

それでも、宇樽部在住の女性の案内で、道に迷うことなく猛吹雪を突いて進む第31連隊の様子は、帰路を求めて八甲田山中を彷徨う第5連隊の絶望的な状況と対照的に描かれている。

現在は国道454号線と県道45号線が似た経路を走っているものの、犬吠峠は北寄りの山中にあって、地図を見る限り、道らしい道は見当たらない。

 

原作では、

 

『下に部落が見えると、徳島大尉は、さわ女に案内料として50銭玉1個を与えて、

 

「案内人は最後尾につけ」

 

と大きな声で怒鳴った。

 

「もう用はねえってことかね」

 

さわ女が言った一言は、それを聞いていた隊員たちの心を打った。

隊員たちは心の中で彼女にすまないと思った』

 

という結末になっているが、映画で高倉健が演じる指揮官は、部下から、

 

「中隊長殿、案内人を最後尾に」

 

と進言されても、

 

「いや、このままでいい」

 

と一蹴、秋吉久美子が扮する愛らしい女性案内人を隊列の先頭に立てたまま、進軍ラッパを吹き鳴らして中里の集落に入って行く。

 

その日の行程が終了すると、

 

「案内人の生家が戸来の鹿田なので、案内をここまでとする──きょうつけッ!案内人殿に対し、かしらァ、右ッ!」

 

と、行軍隊全員で敬礼して謝意を表明する爽やかな後味の展開に変わっていた。

この時の健さんは、この映画で最も格好いい、と痺れたことを、今でもはっきりと覚えている。

 

 

小説では、第31連隊の1日目から7日目まで、第5連隊の1日目から5日目まで、そして第31連隊の八甲田山縦走、と部隊ごとに章が分けられていたが、映画では同時進行であったため、宇樽部前後の第31連隊の描写は、八甲田山中の第5連隊の苦闘と交互にスクリーンに映し出されて、映画で最も迫力ある部分であった。

 

ここが、小説と映画を通じて、子供心に強烈な印象を刻み込んだ宇樽部なのか、と居住まいを正したけれども、「みずうみ」号の車窓に映るのは、鮮やかな木々の緑に囲まれた静かな佇まいの集落であった。

 

 

バスは、ログハウス風の子ノ口駅で小休憩してから、十和田湖畔を離れ、奥入瀬川に沿って山中に分け入っていく。

奥入瀬川の水面は国道の路面とほぼ同じ高さにあるので、車内から清らかに澄んだ流れがよく見える。

どこまで進んでも、樹海の中の国道と渓流は、柔らかな木漏れ日に照らし出されている。

 

 

15時40分に停車した酸ヶ湯温泉は、17世紀の開湯で、豊富な湯量と各種効能により湯治場として知られ、総ヒバ造りの「ヒバ千人風呂」を抱くどっしりとした木造りの建物は、途中下車してひとっ風呂浴びてみたいと思わせる。

この後にも青森行きの便は1時間ごとに運行されているので、温泉に入る行程を組めないことはなかったのだが、僕の頭は「みずうみ」号を乗り通すことばかりで凝り固まっていたから、今から振り返れば少々残念である。

 

 

このあたりは世界有数の豪雪地帯であり、昭和50年代までは、冬季閉鎖となっていた。

年間降雪量は1760cm、最深の積雪は2370cmという記録があり、我が国では富士山に次いで気温が上がりにくい地域とされている。

 

「みずうみ」号も冬季は運休していたが、昭和57年から青森と酸ヶ湯の間が通年運行となった。

手前の谷地温泉から酸ヶ湯温泉までの約8kmは、今でも11月から3月まで閉鎖され、バスより背の高い雪の壁がそそり立つ「雪の回廊」の開通は、春の風物詩として全国ニュースでも目にすることがある。

 

 

酸ヶ湯温泉からしばらく進むと、八甲田ロープウェイの山麓駅が姿を現す。

 

八甲田連峰は、北から前嶽・田茂萢岳・赤倉岳・井戸岳・大岳・小岳・高田大岳・雛岳・硫黄岳・石倉岳の北八甲田と、逆川岳・横岳・猿倉岳・駒ヶ峯・櫛ヶ峯・乗鞍岳・南部赤倉岳の南八甲田から成り、標高1585mの大岳を筆頭とする1500m級の山々が連なる主連峰は、「みずうみ」号が走る国道103号線と、その東を並行する県道40号線に挟まれた地域にそびえている。

バスからは沿道の木々に隠れて見通すことは出来ないけれども、八甲田ロープウェイで田茂萢岳に登れば、青森湾まで広がる雄大な景観を眺めることが出来ると言う。

 

映画「八甲田山」のラストでは、緒形拳扮する第5連隊雪中行軍隊の数少ない生存者の1人が、蝉時雨の季節に現代の八甲田を訪れ、馬立場に建立された「雪中行軍遭難記念像」を眺め、八甲田ロープウェイに乗る。

 

『これは、アオモリトドマツでございます。このアオモリトドマツは、冬になりますと、大きな樹氷となる木でございます』

 

ゴンドラ内の観光案内が、平和な時代を象徴している。

 

『三十一連隊の徳島大尉以下の雪中行軍隊と 五連隊の倉田大尉 伊東中尉らは 二年後の日露戦争中 極寒零下二十数度の黒溝台で 二昼夜飲まず食わずに戦い 続く奉天大会戦を勝利に結びつけ 全員戦死した。

今に残るのは 本州最北端の地に うすれかける記憶で語りつがれる 八甲田山雪中行軍の物語だけである』

 

との字幕が映し出されて、八甲田の全貌が大写しになり、重厚な終焉の曲とともに幕を閉じる。

 

 

僕が八甲田山の遭難事件を最初に知ったのは、新田次郎の著作や映画ではなく、児童向けに日本史の様々な出来事を集めた分厚い本を幼少時に読んだ時だった。

おそらく二段組みで2~3ページだけのエピソードだった筈だが、どのような内容であったのかは、完全に忘却の彼方である。

ただ、無性に恐ろしかった読後感だけは、朧ろな記憶として残っている。

 

開国後に、いきなり帝国主義が席巻する世界の荒波の中に放り出され、清、ロシア、そして後に英米と、アジアに触手を伸ばす大国と戦争を繰り返す運命にあった僕らの国が、懸命に背伸びし、無理をしていた明治という時代を、幼心に感じ取ったのかもしれない。

今、ネットで検索を試みても、本の題名や出版社すら覚えていないのだから、探しようがないけれど、出来ることならば、もう1度手にとってみたいと思う。

 

「八甲田山死の彷徨」で、新田次郎は次の一節で小説を終えている。

 

『とまれ、この遭難事件は日露戦争を前提として考えねば解決しがたいものであった。

装備不良、指揮系統の混乱、未曾有の悪天候などの原因は必ずしも真相を衝くものではなく、やはり、日露戦争を前にして軍首脳部が考え出した、寒冷地における人間実験がこの悲惨事を生み出した最大の原因であった。

第8師団長を初めとして、この事件の関係者は1人として責任を問われる者もなく、転任させられる者もなかった。

すべては、そのままの体制で日露戦争へと進軍して行ったのである』

 

新田氏が小説の取材において、遭難事件を長年研究していた青森の新聞記者小笠原孤酒氏の多大な協力を得たものの、この結びの文面について小笠原氏が強く反発したことは、書き加えておかねばならないだろう。

小笠原氏はノンフィクションに徹する「吹雪の惨劇」を書き始めるが、未完のまま亡くなってしまう。

 

昨今、小笠原氏の研究について記した研究書が出版され、平成16年に発売されたDVD「ドキュメンタリー八甲田山」には、「原作 小笠原孤酒 吹雪の惨劇」とテロップが出る。

 

 

新田次郎の小説も映画も、あくまでフィクションとして受け止めるべきであるのは勿論だが、それでも、夢中になった幼い頃の思い出は忘れ難い。

 

子ノ口駅から青森駅まで「みずうみ」号が辿るのは、雪中行軍隊が歩いた道ではない。

いつしか奥入瀬の清流は姿を消し、鬱蒼と繁る林の中に、県道40号線を分岐する三差路が忽然と現れた。

「田代平」と書かれている標識を見上げれば、紛れもなく僕は八甲田に来ているのだ、との感慨が込み上げてくる。

今回の旅に出掛けてきて良かった、と思う。

 

ブナやトドマツの木立ちの合間に所々で眺望が開ける萱野高原と雲谷峠を過ぎると青森平野で、十和田と八甲田の山並みを越えて来た旅も終わりが近い。

バスに乗っていただけだから、明治35年の雪中行軍の隊員からは関係ない、と言われそうであるけれども、僕は、八甲田を踏破したような気分になっている。

 

 

子供の頃、時刻表をめくりながら、いつか、八甲田山と十和田湖を訪れてみたいと夢想していた。

 

当時は、お誂え向きのバス路線があった。

昭和34年に開業した弘南バスの「十和田西線」は、弘前-黒石-温湯-葛川-温川山荘前-滝ノ沢展望台-大川岱-和井内-十和田湖駅という経路であった。

葛川は現在の青森県平川市域で、第31連隊が1日目に宿泊した小国に近く、温川は2日目に宿泊した切明、十和田湖東岸に出た滝ノ沢のすぐ先に、3日目に宿泊した銀山がある。

十和田湖駅から国鉄バス「十和田北線」に乗り継いで八甲田を抜け、青森から弘南バスが運行していた青森-弘前間路線バスを利用すれば、第31連隊の行軍経路に近い周遊が可能ではないか。

 

ところが、まごまごしているうちに、「十和田西線」は平成13年に廃止されてしまった。

それどころか、「十和田南線」も平成15年に廃止され、同じ区間を引き継いだ秋北バス路線も平成27年に廃止されてしまう。

盛岡と十和田湖を結ぶ「とわだこ」号も、平成21年に運行を取り止めたが、翌年から岩手県交通が同じ区間を「盛岡・十和田湖」号として夏季~秋季の季節運行を再開し、現在に至っている。

 

今回の「とわだこ」号と「みずうみ」号を乗り継ぐ旅で、願いが半分叶ったと言えないこともない。

それでも、現地に来てみれば、雪中行軍隊がたどった八甲田東南山麓の県道40号線を走ってみたくなる。

いつか、レンタカーでも借りて、弘前から銀山、宇樽部、十和田市、そして県道40号線をたどって青森、と走ってみたいと思う。

 

 

県道40号線に沿う青森市幸畑にある青森歩兵第5連隊屯営跡に建てられた八甲田山雪中行軍遭難資料館と墓地を、僕はこの旅の直前に訪れている。

数か月前の昭和63年3月に青函トンネルが開通したので、上野発札幌行き寝台特急「北斗星」に乗り、函館駅から快速「海峡」で折り返した僕は、青森駅から田茂木野行きの青森市営バスに乗り込んだのである。

 

『五聯隊の遭難者墓地は幸畑にある。

四方に土手を築き、桜と赤松をめぐらせ、その中に芝生を植えこんだ、なにか西洋の墓地を思わせるものがあった。

正面には山口鋠大隊長の碑が一段と高く聳え、その左右に将校たちの碑が階級に準じて並んでいた。

この中に神成文吉大尉の碑があった。

一段下って、南側と北側には参拝者の通路を隔てて下士卒の碑が並んでいた。

死しても階級の差は厳然として示され、近づきがたいものを感じた』

 

 

北海道旅行の帰路にわざわざ寄り道したのは、「八甲田山死の彷徨」巻末の取材記の描写に惹かれたからである。

資料館と墓地の雰囲気は取材記そのままで、少佐が189㎝、大尉~少尉が162㎝、特務曹長が128.5㎝、曹長から伍長が94㎝、上等兵から二等兵が73㎝と、階級ごとに墓石の大きさが異なっているのも事実であった。

 

圧倒的されたのは、墓苑一面に整然と並んでいる下士卒の墓の数だった。

これほどの人々が八甲田山で命を落としたのか、と慄然とする一方で、僕には、前方の大きな墓に眠る上官を慕っているようにも見えた。

小説でも映画でも、雪中行軍隊に参加した下士卒は上官を敬い、頼り、慕いこそすれ、乱れた指揮や言動を批判する態度が殆ど見られなかったという印象を受けていたからこそ、そのように感じたのかもしれない。

 

墓地から家々の屋根越しに見えた、雪を残す八甲田の山並みが、心に滲みた。

 

 

映画「八甲田山」に対する僕の熱狂は、しばらくの間、やむことがなかった。

中学・高校・大学時代を通じて、小学校の音楽の先生が録音してくれた「八甲田山」のカセットテープは擦り切れるほど聴いた。

初めてソフト化されたVHSビデオを購入した時の心の昂ぶりは、筆舌に尽くし難い。



熱が冷めていた時期もあったけれど、サウンドトラックがCDとして復刻され、劇場随伴曲全てを網羅したCDが発売されると、僕の「八甲田山」への熱情が蘇る。

CDを聴いていると、劇場で鑑賞してから半世紀近くが経過した今でも、僕の脳裏には、その曲が使われていた場面や台詞が鮮明に甦ってくる。

映画「八甲田山」が持つ力、と言うべきであろう。

 

「どうして、ただ雪の中を人が歩いて死んでいくだけの映画に、こんなに感動したのかなあ」

 

という疑問を、中学生の時に女性の先生に投げ掛けてみたことがある。

 

「映画に出てくる人間のドラマに感動したに決まってるじゃないの」

 

と一蹴されたが、はて、「八甲田山」に心に残る人間ドラマなどあっただろうか、と僕は納得しかねたものだった。

 

新田次郎は、映画「八甲田山」のパンフレットで、次のように寄稿している。

 

『映画「八甲田山」の試写を見て来た土岐雄三さんが、あるパーティの席上で私に言った。

 

「すばらしい映画でした。率直に言って、原作以上のものだった」

 

と、たいへんな感激ぶりだったので、どこがそんなによかったのかと訊いたら、

 

「雪ですよ。雪の中の歩き方です。これこそ、現地へ行って実際の雪にまびれて撮らないとできないものです」

 

と言った。

そのほかにいろいろの讃め言葉があったが、要するに土岐さんが原作より勝れていると言いたいのは、雪における、原作と映画の表現の差にあるのだなと思った。

 

原作「八甲田山死の彷徨」を書いているとき、雪をどのように描写するかには苦労した。

私は信濃の生まれではあるが、雪国といわれるほど雪に恵まれたところではない。

冬山歩きやスキーなどの経験はあっても、冬山で遭難した経験はないし、ましてや、吹雪の八甲田山は知らない。

こんなところが、雪に対する、筆の甘さとなったのかもしれない。

土岐さんと話し合っていて、ふと頭の中に浮かんだのはそのようなことだった。

 

土岐さんと会った翌日私は試写室で映画「八甲田山」を見た。

未だかつてない感動を受けた。

土岐さんの言ったとおりだと思った。

だが、ここで私は土岐さんの言った原作以上のものという言葉は、原作と映画の比較ではなく、それぞれ別の尺度で測った場合のことを言っているのだなと思った。

もともと芸術の分野が違う文学と映画を比較することはできない。

そのように考えると彼の言葉がはっきりする。

 

映画「八甲田山」においての雪の取扱いには頭が下がった。

吹雪の場面、雪崩の場面、その雪の中を彷徨するあらゆる異なった自然状況をあれほどきびしく、しかも美しく描き出した映画がいままであったであろうか。

 

映画「八甲田山」は雪を完全にとらえることができたから、雪を背景として起こった人間ドラマを完全に映像化することに成功したのであろう。

映画スタッフ等の雪に突進する姿勢がそのまま、八甲田山雪中横断を試みた軍隊の姿に思われた。

撮影隊が遭難寸前ということもあったと後で聞いて、なるほどと思った。

 

2時間48分という長い時間であったが私には1時間ほどの時間にしか感じられなかった。

それほど肉迫して来る映画だった。

原作者は、その作品が映画になった場合冷酷なほど客観的な目、言いかえれば、、意地悪な目でそれを見るものである。

原作の一部が下手に演出された場合は内心舌を打ち鳴らし、原作に無いことが取入れられてあると、ばかばかしいといったように、よそ見をしたりするものだ。

しかし今度は全然違った。

私は1人の観客として「八甲田山」を見た。

「名画」のとりこになってスクリーンに見入っている若かりし時代に返って、最後の最後まで身ゆるぎもせず見詰めていた。

映画が終った後も拍手を忘れてしばらくはじっとしたまま坐っていた。

映画「八甲田山」にノックアウトされたような気持だった』

 

映画パンフレットを購入したのも「八甲田山」が初体験だったが、雪の猛威を歩く姿で表現したという見方に、僕は、そうだったのか、と膝を打つ思いだった。

全編が凄まじい雪の迫力に溢れ、そこを歩かなければならない運命に直面した人々の壮絶な苦闘と葛藤こそが、この映画の最大の魅力だったのは、確かである。

 

今にして思う。

八甲田山の遭難事件は、新田次郎が指摘するように、日露戦争を目前にして、戦争の影が社会に忍び寄る暗い世相を抜きに語ることは出来ない。

国家が1つの方向に猛進する時、個々の人間の存在や思惑などは、どうしても埋没しがちになる。

それだけに、1人1人が織り成す、ささやかな人間模様が、限りなく美しく見える瞬間がある。

宇樽部の女性案内人と行軍隊との心温まるやりとりをはじめ、双方の行軍隊指揮官同士の友情、下士卒の上官に対する敬愛、凍傷に難渋する仲間への思いやり。

 

大人になった僕の心に強く刻まれているのは、雪の中を歩く姿よりも、人間同士の触れ合いの場面ばかりなのである。

 

 

「みずうみ」号が到着したのは、黄昏が迫る青森駅前だった。

困ったことに、ここで、旅の記憶が再び途切れてしまう。

往路と同様、僕が、どのようにして東京へ戻ったのか、ということが判然としない。

 

ただ、「みずうみ」13号が青森駅に着いた16時40分という時間を考えれば、選択肢はそれほど多くない。

東北新幹線「やまびこ」に接続する盛岡行き特急「はつかり」の最終は、青森発17時33分で、21時24分発「ゆうづる」と21時57分発「はくつる」といった寝台特急もある。

行きと帰りに利用した交通機関を覚えていない、という情けない旅であったのか、とがっかりしてしまうけれど、青森駅から上り「はつかり」と「やまびこ」の乗り継ぎを利用した経験が皆無であることは、それなりに自信がある。

おそらく青森で夕食を食べて、ゆっくり過ごしてから、寝台特急に乗り込んだのだろう。

 

「みずうみ」号を降りて、僕は、南の空を振り返った。

十和田湖畔ではあれだけ晴れ渡っていた空が、いつの間にか分厚い雲に覆われていて、八甲田連峰どころか、手前の雲谷峠すら望むことは出来なかった。

 

 

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