1939年、五島は上野毛に移住し、城西南地区へよく散歩に出かけていた。
この時五島は秘書に、
「ここに街を作り、鉄道を通すのが俺の夢だ。
道路や鉄道を通し、大規模な住宅開発をすれば、理想的な街づくりが出来るぞ」
と話していたらしい。
1953年、五島は川崎~横浜~町田~大和に至る、大規模でかつ長期計画による都市開発構想、多摩田園都市構想を発表した。
これは「城西南地区開発趣意書」に端を発する。
多摩田園都市開発の対象地として決定した地域は、神奈川県北東部の丘陵地帯で、大山街道に沿った地域だった。
当時の東京は、住居不足を始めとする人口問題に悩まされていたのである。
五島は大きな行動に出た。
人口問題が起こる中、首都圏でも特に発展が遅れていた、大山街道(国道246号)沿いの地主を東急本社に招いた。
そこで大山街道沿いに巨大な田園都市を創り上げると言った内容を発表した。
簡単に言うと人口問題に対してイギリスがロンドン郊外にいくつかの田園都市を創り解決していった様に、
「東京の人口問題も当地に田園都市を創るのが最も適当だ」
と前置きをし、そして、
「このままだと東京はインフラも教育施設も公共施設も十分にないパンクした街になってしまう。
ならばインフラや学校等公共施設を核としている田園都市をいくつも沿線上に造ろう」
と言うものだった。
【はまれぽ.com幻の高速道路計画「東急ターンパイク」の真相は?より 】
「城西南地区開発」は、これらの地域内に核となる街区を建設する。
そして、開発対象地域の北部を通り、二子玉川と厚木基地周辺の工業地帯を連絡する交通機関を建設する。
更に渋谷から開発対象地域の東部を通り、横浜駅西方を経由し湘南方面を連絡する高速道路を建設し、短期間で新都市を建設すると言う構想であった。
この記事は2015-04-07
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