皆様こんばんは。ブログおよびホームページ管理人の神@北見です。
先日は久しぶりにキハ58系実車の考察をし、仙台管内にいたキハ53 200番代の増設側の種車について見てみました。結論としては201の種車は「67か105が怪しいが断定できない」、202の種車は「97でほぼ間違いなし」という結論でした。それでは他のキハ53はどうでしょうか?
北海道のキハ53 500番代については資料が残っているのか、ジェーアールアール誌、鉄道ピクトリアル誌等で当初から種車が明らかにされており、これは実際に改造前の姿と比較しても間違いが無いと思われます。
キハ53 501 母体:キハ56 14 増設:キハ27 37
キハ53 502 母体:キハ56 15 増設:キハ27 2
キハ53 503 母体:キハ56 19 増設:キハ27 22
キハ53 504 母体:キハ56 40 増設:キハ56 20
キハ53 505 母体:キハ56 47 増設:キハ27 52
キハ53 506 母体:キハ56 113 増設:キハ56 46
キハ53 507 母体:キハ56 120 増設:キハ27 39
キハ53 508 母体:キハ56 121 増設:キハ27 21
キハ53 509 母体:キハ56 139 増設:キハ27 33
キハ53 510 母体:キハ56 38 増設:キハ56 17
では残るキハ53は金沢管内にいた1000番代です。この車たちの増設側の顔について考察してみたいと思います。最近ネタが尽きてきており話を引き延ばすため1両ずつご紹介します。まずは1001です。
↑キハ53 1001の後位側です。
キハ53 1000番代は能登線がJRであった当時、末端部の輸送力適正化の意味もあり3両が改造されましたが、七尾線電化時には富山に転じ、越中八尾までの区間列車などでキハ52に代わり使用されるようになりました。高山本線のキハ120化後は高岡に転じましたが、高岡では1両ワンマン運用は基本的にキハ40が担当しており、キハ53は他のキハ58と共用で使用されることが多く単行運転の機会が減りました。私はこの1001の顔を結局見ず仕舞いでしたのでイラストでご紹介です。晩年の姿でキハ53改造後もあちこち手が加えられています。
なお、キハ53改造間もない姿を発見しておりますので、こちらのイラストもご紹介します。
↑ワンマン化前なので放送・ワンマン用ジャンパーの位置が異なりますがこちらがキハ53改造当初の姿ですね。この顔の種車が誰か?を解析する際に注目するポイントとしては、
・タイフォンがこの時代に廃車になった若番車にしては比較的少数なシャッター式になっている。
・運転席側窓下の手すりが無く、金沢地区に良くある形状になっている。
・尾灯は、これまた金沢地区では良くみられた、運転席側のみ外ばめ式、しかももとの内ばめ式の痕跡の無いタイプになっている。
・放送ジャンパケーブルの栓納め位置は、尾灯の外側にありこの地区では珍しい形態
・幌枠に切れ込みがあるので新潟鐵工製ではない。
・昨日の考察によると、当車の渡り板のヒンジ部形状は新しい。
あと、側面の情報も発見されており、例の乗降ドア脇の手すりは長くなっています。
↑写真で見た情報からは、乗降ドア脇の手すりが長くなっており、富士重工製が確定です。
以上までに確認された情報から、このキハ53 1001の種車を推測してみましょう。
まず、キハ53 1000番代の改造時期は1987年度後半ですので、後位側の種車になったのは国鉄末期に廃車になり国鉄清算事業団に継承された車でしょう。そうなると1986年度に金沢局管内で廃車になった車が怪しいです。まず1986年度に金沢局内で廃車になったキハ58系を列挙します。
キハ28
34:1986/6/16 敦賀
65:1987/3/10 敦賀
66:1987/3/10 敦賀
116:1987/3/10 七尾
2090:1987/1/14 七尾
2092:1987/1/14 敦賀
キハ58
6:1987/1/14 七尾
26:1987/1/14 七尾
70:1987/1/14 七尾
71:1987/1/14 七尾
99:1987/3/10 富山
121:1987/1/14 七尾
171:1987/1/14 七尾
238:1987/1/14 七尾
261:1987/1/14 敦賀
このうち、キハ28 65・66・116とキハ58 99は非冷房車なので種車になっている可能性は非常に薄いため除外します。残りの車の中で、富士重工製の車両のみをピックアップしてみます。
キハ58 70
キハ58 171
キハ58 261
おっと、これで3両に絞られました。次にその他の形状から絞り込んでゆきましょう。
まずキハ58 70ですが当車は「53-10改正」後の1978年10月11日付で徳島から七尾に転じた車で、四国タイプの放送ジャンパ栓納め、タイフォンはスリット状カバーで七尾時代に助手席側へ傘の追加という姿が確認されています。またJR化後の1988年に未だ七尾構内に留置されているのも目撃されていますのでこれが種車の可能性はほぼゼロだと考えています。
次にキハ58 171ですが、この車は長く和歌山配置で、紀勢本線電化に伴う「53-10改正」で浜田へ転じ同区の非冷房車と入れ替わり、その後1982年7月の伯備線電化で捻出されて七尾へ転じた車です。その経歴からこの車がシャッター式のタイフォンを装備していたとはなかなか考えづらい状況です。1983年頃に目撃された姿では前面補強施工前ながらタイフォンカバーはスリット状カバーになっています。なのでこれが種車である可能性も低いと思われます。
最後にキハ58 261ですが、実はこの261については現役時代の姿が見つかっていません…。なので何とも評価が難しいのですが、兄弟のキハ58 262は261と似たような経歴の持ち主でした。両車とも新潟に配置されていましたが1970年に受け持ち変更で金沢へ転じ、1978年10月の中部地区急行大改革により七尾へ転じました。そして261だけは「55-10改正」で敦賀担当急行の冷房化のため敦賀に転じましたが、261はJRへ継承されずに廃車になっています。当時敦賀にはキハ58 95・111といった若番もいたのになぜ261が廃車になったのかは良く分かりません。そして経歴の似たキハ58 262は寒冷地運用を持っていた金沢にいたためタイフォンがシャッター式になっています。
↑キハ58 262です。シャッター式タイフォンを装備しており、恐らく兄弟の261も似たような形状であったと思われます。
そのため、このキハ53 1001の後位側の種車は1987年1月14日に敦賀で廃車になった「キハ58 261」ではないか?というのが現在有力な候補です。ただ残念なのはこのキハ58 261の現役時代の姿が発見されていない事です。敦賀のキハ58系は国鉄時代末期は急行「わかさ」「はしだて」で活躍し、特に急行「丹後」に併結されて京都まで顔を出していたのは有名ですが、この運用では急行「丹後」に併結された際にキハ28が先頭になる向きになっており、キハ58の情報がなかなか見つかりません。国鉄時代の小浜線の2連急行なんて地味すぎてなかなか被写体になることも無く、キハ58 261の情報が見るからないのが現状です。もし国鉄時代の急行「わかさ」「はしだて」等の情報をお持ちの方がいらっしゃったらご教示いただけると幸いです。
ということでキハ53 1001の後位側の種車はキハ58 261が有力というとこまで分かりましたが決定打にはなりませんでした。引き続き調査が必要ですね。次回は続きでキハ53 1002を検証してみたいと思います。これもまた難しいなぁ…。
今回も最後までご覧いただきありがとうございました。それでは次回もお楽しみに!!
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