今日は湘南電車誕生の日 -③ | 安芸もみじ / Historys, Trains, Townbikes - Hiroshima JAPAN

今日は湘南電車誕生の日 -③

湘南電車誕生の日

1950(昭和25)年の1月30日、日本の鉄道史における転換基となる80系湘南形電車が誕生しました。

一昨年は115系との抱き合せ、昨年はその補足として単独記事として、今回で3回目の"湘南電車誕生の日"の記事です。

年1回、いつまで続けるのか続くのか分かりませんが、今年も始めます。

今回は湘南電車や鉄道そのものから少し離れて、世界情勢の側から見た湘南電車登場前夜的な内容です。



満洲の民 女真族が1616(元和2)年に後金国を清国と国号変更し、明国の滅亡後の1644(寛永21)年に中国全土とモンゴルを支配して大清国となるものの、1912(明治45)年に中華民国が樹立されました。

中華民国は滅亡した女真族王朝に代わり、満洲へ侵攻し逆支配して領土化し、国家継承における条約継承否定説を採用して、清国時代に締結された諸外国との条約の無効を宣言し始めます。

イギリスに次いで日本に対しても1915(大正3)年に対日制裁として懲弁国賊条例が発布され、1928(昭和3)年には日清通商航海条約の破毀を一方的に宣言し、日本政府は中国政府に対して厳重な抗議を行います。

しかし1929(昭和4)年に条例は強化され、日本人に対する土地・家屋の商租禁止と従前に貸借している土地・家屋の没収が図られたり、朝鮮系や日系の人々へ迫害が始ります。

この事態を重く見た日本政府は邦人保護の名目で陸軍増援部隊を派遣しますが、1931(昭和6)年に満州の奉天(現在の瀋陽市)近郊の柳条湖付近で、政府や軍令部の承認無く陸軍が行動を起こします。



満洲派遣部隊の関東軍が、南満州鉄道(満鉄)の線路を爆破し、これを中国軍による犯行と発表することで、満洲における軍事展開およびその占領の口実として利用しました。

この事件を満州事変(滿洲事變)と呼び、邦人保護と治安警備のための陸軍派遣は、関東軍による満州全土の占領という侵略戦争の様を呈します。

欧米各国は当初、この顛末を冷静に見ていましたが、満洲における権益を排他的に日本が独占し始めると反発し、対日強硬姿勢へと移行していきます。

満洲掌握の当初、これだけの広大な土地を日本一国で運営することは難しいとし、日本政府はアメリカとの共同管理を考えていました。

そもそも満洲占領は政府にとって青天の霹靂であり、軍令部は事前情報を入手するも計画を止めるのに間に合わなかった経緯があり、満洲運営の青写真を持っていませんでした。



しかし政府と同じように困惑していた軍令部でしたが、戦闘によって命を落としたのは日本人であり、共同管理とは言えアメリカへ無償で権益わ渡すのは英霊に顔向けできないと主張し、満洲は日本の植民地と化しました。

欧米からの批判が強くなり過ぎたことにより、元々満洲は中国の一部では無いことから、大清国最後の皇帝を戴いて独立させますが、日本の影響力が大きく働く政権を傀儡政府だと非難し、欧米各国は対日制裁を強化させます。

特にアメリカは海軍の訓練航海など、仮想敵国でありながら日本との友好的な関係を深めており、満洲の共同管理にも前向きな意見が多かったことから、日本の舵取りは裏切りと感じていました。

日米が決裂した決定的な出来事は1940(昭和15)年に締結された日独伊三国同盟で、解決できずに泥沼化していた中国戦線とは別に、日米は戦争へと突入します。

1941(昭和16)年に日本から仕掛けた戦争は1945(昭和20)年に日本の敗戦と言う形で終わり、日本と戦闘が行われた各国が戦争中に連合軍を形成したため、日本に降伏した国も先勝国となり、戦後の日本へ駐留しました。



戦争が終ると日本は復興の道を歩み出し、連合軍による管理の元で、できる所からライフラインなどのインフラの整備が始まります。

電話、電気、上下水道など都市部中央や連合軍施設の周辺から整備が行われ、道路や鉄道の復旧にも力が入れられ、輸送力が回復すると次第に都市の復興も加速的に進展していきます。

鉄道・・・・特に国鉄では、ポツダム宣言受諾の翌年 1946(昭和21)年から、老朽資産を取り替えるべく開始された第一次5ヶ年計画により、飛躍的に貨物・旅客の輸送が改善しました。

1947(昭和22)年に全国各線で急行列車・準急列車が運転され始め、国鉄の復興がようやく軌道に乗り始めると。

1949(昭和24)年には待望の特急列車が復活し、列車名に"へいわ"と命名されましたが、この年の元日から公募により、翌1950(昭和25)年には"つばめ"と改称し、姉妹特急として"はと"も誕生しました。



また戦後の混乱によるインフレーションもこの頃には収束に向かいつつあり、国鉄の財政はなお厳しい状態ではあったものの、人の往来を促すために運賃改訂が行われました。

三等車(普通車)に乗車する通行税が全廃され、遠距離逓減制の細分化がなされ、長距離区間に関しては大幅な値下げとなり、二等車(グリーン車)の運賃も、それまで三等車の3倍だったものが2倍へと値下げとなりました。

湘南電車80系がデビューした1950(昭和25)年とは、日本がそんな状態の時代でした。

そもそも東海道本線における長距離電車運転は、大正時代に横浜~国府津間の電化が計画されていましたが、1923(大正12)年に関東大震災が発生し、計画は断念せざるを得なくなりました。

しかし横須賀線では1930(昭和5)年から電車による運転が開始され、東海道本線と並走する東京~大船間で速度向上やラッシュ対策の実績をあげていました。



戦後の混乱期ではあったものの、東海道本線の輸送事情は逼迫著しく、電車による高頻度運行で増加し続ける輸送需要に対応する計画が立てられます。

しかし当時、敗戦による占領下でその計画は理解されず、連合軍最高司令官総司令部 の第3鉄道輸送司令部は、アメリカ本国の都市間電車は衰退しつつある現状から、100kmを超える長距離の長大編成による電車列車の高頻度運行には否定的でした。

そこで国鉄は、東海道本線の電車についても横須賀線程度の短距離運転という名目で申請し、後から距離を延長して計画を実現させようと策略し、東海道本線用の新型電車製造の予算を承認させました。

設計に関しては既に営業運転を行っている電車の技術に、長距離を高速で走り続けるための新技術を組合わせ、オハ33などの客車をベースにて開発されました。

京都鉄道博物館に保存展示されているクハ86とモハ80の2両は共にトップナンバーで、この時に鉄道の未来を想い描いた国鉄の設計思想を、そのまま今に伝えています。



今年の1月はモハ80の車内公開が行われており、鬼滅の刃 京ノ御仕事 弐のイベントも開催されていたので、クハ86には等身大の煉獄杏寿郎(れんごくきょうじゅろう)が・・・・いました。

煉獄さんは、80系車内公開が終わっても、外からはまだ見られるのかも知れませんが、やはり行くなら1月でないとと、前売りチケットを手に入れての上洛(笑)でした。

そうそう、モハ80の連結されていない側の貫通路ですが、前回行った時までは鉄板で塞がれたままとなっていましたが、いつの間にかクリアボードに変更されていました。

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『臨時列車の快速『ムーンライトながら』につきましては、お客さまの行動様式の変化により列車の使命が薄れてきたことに加え、使用している車両の老朽化に伴い、運転を終了いたします』(JR東日本プレスリリース)

新型コロナウイルスの影響で、2020(令和2)年3月の運転を最後に、ムーンライトながらとしては24年、大垣夜行時代を含めると52年の歴史に幕を下ろしてしまいました。

今日は東海道本線における、日本初の長距離電車が誕生した記念日と言うことで、このムーンライトながら号について、簡単に記してみることにします。

東海道本線 の長距離夜行列車の歴史を単純に遡ると、1889(明治22)年に新橋~神戸間の列車に辿り着きます。

この列車は新橋を16時45分に発車し神戸へ12時50分に到着、神戸を17時30分に発車し新橋へ13時40分の到着でした。


しかしこの列車は、鉄道高速化の歴史のその後に誕生する、特急列車や急行列車も含む全ての夜行列車の祖となる存在です。

では、ムーンライトながらの直系の祖先はと遡ると、1960(昭和35)年4月1日に運転開始した東京~大垣間の修学旅行列車 こまどりの間合いで誕生した、臨時準急 長良(ながら)と言っても良いと思われます。

1961(昭和36)年3月1日に、漢字表記は平仮名に改められ、準急ながらとなりますが、1965(昭和40)年10月1日のダイヤ改正で、新幹線開業後も6往復存在していた急行 東海の昼行と夜行の2往復と共に廃止になります。

急行 東海は昼行4往復体制となりましたが、夜行便に関しては臨時急行として存置され、この列車に「ながら3号」の列車名がつけられます。

また、定期列車として夜行の普通列車が客車列車として走っていましたが、合理化の名目で1968(昭和43)年10月のダイヤ改正で廃止となりました。


この改正は「ヨンサントオ白紙ダイヤ改正」と呼ばれ、国鉄の無煙化(動力近代化計画)の促進とや全国的な高速列車網の整備など、その後の現在に至るJR列車群の基礎を作った画期的なダイヤ改正でした。

この時に廃止された客車列車は、東京を23時30分に発車し大垣7時35分、大阪へは10時58分到着で、大阪発は23時50分で大垣を3時27分発、東京へは4時40分の到着でしたが、廃止反対の要望書が国鉄本社などに多く寄せられ、急行ながら3号を快速列車へ格下げして、毎日運転の定期列車としました。

当時は東名高速道路も全通しておらず、もちろん格安航空会社も存在しなかった時代で、寝台車の無い普通列車で格安移動する交通手段が必要な時代でした。

元々は急行列車だったため、車両運用の関係からそのまま急行用電車が使われ、グリーン車2両を連結したこの夜行列車は、整備の整った大規模な大垣電車区がある大垣発着となり、ここにムーンライトながらへと繋がる、大垣夜行が誕生しました。

東京と中京を結ぶ夜行列車として毎日満席状態で、東京~小田原間は遅い帰宅通勤客も利用し、翌朝の豊橋から先は朝の通勤客でも混雑する列車でした。


繁忙期の内、特に連休で多客日には救済列車と呼ばれる続行便も運転されるほどの人気列車で、バブル景気の最中では1980年代後半に、首都圏の地価高騰の影響で東京への通勤圏が、静岡県東部まで広がっており、新幹線の最終を逃した新幹線通勤者の最終列車としての役割も果たすようになりました。

そしてもう1つ大きな役割があり、先頭車両の前にもう1両、荷物電車を連結しており、都内で刷られた翌日新聞朝刊の輸送も担っていました。

大垣夜行は1987(昭和62)年のJRグループ発足後も運行され、1996(平成8)年には特急 東海などに使われるJR東海の373系特急型電車に置き換えられ、快速列車でありながら特急車両に乗れる長距離列車となりました。

しかしこの時点で、東京から小田原方面への通勤の役割はなくなり、乗車するには指定席券が必要な列車となりました。

全車指定席となったことから列車名が必要となり、臨時の準急・急行時代の名前を冠させてムーンライトながらと命名されました。


大垣夜行では着席できない利用客も多かった人気列車を、全車指定にしてまで利用客を制限したのは、指定席券による追加料金の徴収による増収目的ではなく、利用客が早い時間からホームに並ぶことを嫌っただけでした。

利用したい人に対して乗れる人を制限したため、ムーンライトながらは指定席確保が困難なプレミアムチケットとなり、青春18きっぷのシーズンには、JR東日本の183系や189系で救済列車が続行運転されるようになります。

しかし国際競争力を強化するために取り組まれた各種自由化の規制緩和が行われ、それを機に"長距離夜行バス"や"高速ツアーバス"が盛んに運行されるようになると、安さで多くの人をひきつけるようになり、「ムーンライトながら」の利用にも陰りが見え始め、2009(平成21)年春には定期運行が廃止されて、臨時列車化されます。

インターネットでチケットが買えるようになり、ケータイが進化してスマホでもチケットが予約できるようになると、長距離バスはその後も伸び続け、JRグループも新幹線や特急列車のネット予約ができるようになりましたが、快速列車であるムーンライトながらはその対象外となっていました。

東京~名古屋間や東京~大阪間の運賃は快速列車とは言えムーンライトながらよりも、断然バスの方が割安ではありましたが、快適性を求める旅客はムーンライトながらの利用を望んでいたものの、JR側が売らなかったというのが現実だったと言えるかも知れません。


ムーンライトながらの座席指定券は「みどりの窓口」に行かないと買えないという状態を継続していたのは、近い将来に廃止にすることが念頭にあったからなのかもと、想像してしまいます。

会社間を跨ぐ列車の運行は、保安装置などの列車安全装置の搭載や、運転士の訓練などの莫大な経費がかかり、収益性の観点から見るとムーンライトながらの運行は利用客の便宜のためだけに存在していた列車と言えるでしょう。

2020(令和2)年春は運行されたものの、その後はコロナ禍により利用動向の見通しが立たないという理由で休止し、使用車両の老朽化のために運行を終了する旨の告知がなされたのは、事実上コロナ禍はきっかけに過ぎず「経営合理化の一環」が本当の理由と言えるようです。

ムーンライトながらとしては24年、大垣夜行時代を含めると52年・・・・準急ながらを含めると60年という歴史になりますが、80系電車誕生から70年で、東海道本線長距離電車の歴史に幕が下りました。

さて、昨年は公衆電話の歴史も簡単に振り返りましたが・・・・長電話はまだ若かりし20代の頃に、好きだった女性と毎週水曜日に、家からはかけられない(訳じゃないけど)ので古江の駅前から1~2時間って時もありました(笑)

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