今回から全15回に分けて、185系の40年の生涯を振り返る連載記事のアップを開始いたします。よろしくお付き合いのほど、お願いいたします。
タイトルの「準特急とよばれて」とは、ご案内で申し上げたとおり往年の大映ドラマ「不良少女とよばれて」が元ネタですが、完全な特急型であった485系や183系などとは異なる特徴を持った車両ということです。
第1回となる今回は「前史」として、昭和50(1975)年3月ダイヤ改正(以下「50.3」という)時点での、東京発着の伊豆方面への特急・急行の状況を概観しておこうと思います。

「50.3」時点では、東京発着の伊豆方面への優等列車は、以下のとおりのラインナップとなっておりました。

特急「あまぎ」東京-伊豆急下田 157系
急行「伊豆」東京-伊東・伊豆急下田・修善寺 153系
急行「おくいず」東京-伊豆急下田・修善寺 153系

当時は特急「あまぎ」は4往復に過ぎず、しかも毎日運転の定期列車はそのうちの2往復だけ、残りは各1往復が季節・臨時列車という扱いでした。当時は現在とは異なり、特急「あまぎ」はどちらかというと以前の「スーパービュー踊り子」のような、伊豆方面への列車のフラッグシップ的な存在で(実際に全席指定だった)、主力はあくまで急行、それも全席指定の「伊豆」。そこに自由席車を連結し収容力にも配慮した急行「おくいず」が加わるというラインナップでした。このため、毎日運転の「おくいず」は本数が限られていて、残りの毎日運転の急行は「伊豆」が殆どでした。このころになると、特急・急行とも「列車群」の考え方が浸透し、同一系統の列車はできるだけ同一列車名にまとめることになっていたのですが、にもかかわらず「伊豆」と「おくいず」は並立していました。その理由は、両者の編成構成の違い。とはいえ両社とも153系編成を使用することは同じなのですが、異なるのは普通車の指定席車の比率。前者は急行でありながら普通車も含め全席指定、「おくいず」はグリーン車こそ全席指定であるものの、「伊豆」とは異なり普通車を一部自由席車にした、当時の電車急行としてはオーソドックスな編成内容でした。もっとも、「伊豆」の全席指定は始発エリアからの指定席確保のチャンスを図った意味合いが強かったようで、上り・下りとも小田原以遠では普通車が全席自由席となっていました。
編成は特急「あまぎ」が157系の7連又は9連(うちグリーン車2両)、急行「伊豆」「おくいず」が153系で、伊東・伊豆急下田方面へ向かう基本編成がグリーン車2両を組み込んだ10連、修善寺へ向かう付属編成がグリーン車のない5連でした。「50.3」以前には修善寺編成にもグリーン車を組み込んだ編成が存在し、一部の修善寺行きの「伊豆」にグリーン車が連結されていたのですが、「50.3」を機に付属編成からグリーン車が抜かれ、修善寺方面行きはグリーン車無しの5連に統一されました。
その他、「50.3」の前年に遠く下関から転入してきた167系を使って、多客期を中心に臨時「おくいず」などが運転され、当時未だ残っていた修学旅行カラーの鮮やかな色のまま、伊豆半島の海岸線沿いを走る姿が見られました。もっとも、167系はその後、冷房化・湘南カラーへの変更が行われ、特徴ある修学旅行カラーは見られなくなってしまいましたが、それでも国鉄からJRへの改組の際にも生き延び、様々な改造を受けながら、21世紀初頭まで臨時列車で重用されました。勿論、伊豆方面にも何度も顔を出しています。

「50.3」の1年後、早くも「伊豆」の全席指定が改められることになります。
昭和51(1976)年10月のダイヤ改正の際、「伊豆」にも普通車に自由席車が設定されました。これによって「伊豆」と「おくいず」の編成内容に差がなくなり、両者を並立させる必要がなくなったことで、「おくいず」を「伊豆」に統合、東京発着の伊豆方面の急行は全て「伊豆」に統一されました。
特急の「あまぎ」は、157系の老朽化が顕著になってきたため、「50.3」から1年も経たない昭和51年2月末限りで退役し、183系1000番代(以下183-1000という)の10連(グリーン車2両)に置き換えられました。この置き換えをもって、157系は営業運転から退いています(車両は皇族方御乗用のクロ157の伴車として、昭和55(1980)年まで4両だけ残存)。157系は昭和34(1959)年から翌年にかけて製造された車両で、稼働年数は20年に満たなかったのですが、同系の装備していた1枚下降窓の水抜きに難があって、それにより車体外板の腐蝕が進行してしまい、それで寿命が縮まってしまいました。

このように、昭和50~51年の時点においては、伊豆方面への急行列車には、臨時列車など一部の例外を除き、153系が使用されていました。153系自体は、製造初年は昭和33(1958)年ですが、伊豆方面への系統へ投入が開始されたのは、昭和35(1960)年(当時は急行ではなく準急だった)でした。昭和41(1966)年ころ、一等車(→グリーン車)について、回転クロスシートを装備したサロ153から、フルリクライニングシートを装備したサロ152・163・165に置き換えつつ、活躍を続けてきました。同じころから冷房改造も積極的に推進し、このころ急行「伊豆」に充当される列車は、普通車も含めて冷房化が完了していました。余談ですが「50.3」で修善寺編成から抜かれたグリーン車こそ、最後のサロ152で、この改正を機にサロ152は形式消滅しています(車両自体は解体されたわけではなく、サロ112として113系用に改造)。
しかし、153系は初期の「新性能電車」のため、車体の軽量化を過度に推し進めたことからか、老朽化の進行も早くなっておりました。153系の1年後に登場した157系が、実働期間僅か17年で全車退役した(クロ157の伴車となったものを除く)のは前述のとおりですが、昭和51年の時点でも、153系で最も古い車両でも経年は18年、伊豆方面への系統に投入されてからでも16年と、やはり20年経過していません。153系は2段ユニット窓を採用していましたから(サロ152を除く)、157系のような「下降窓から雨水などが侵入して車体を腐蝕させた」ということはありませんでしたが、それでも老朽化は顕著になっていました。
もっとも、153系のような急行型車両に関しては、以前に述べた「工業製品の4つの寿命」(物理的寿命・社会的寿命・経済的寿命・技術的寿命)のうち、物理的寿命の他にも、社会的寿命が尽きつつあったのかもしれません。運賃以外のエクストラチャージを徴収する列車について、「切り立った座席」(かつて鉄道ジャーナル誌の急行アルプスの列車追跡記事で乗客の発言として取り上げられたもの)では、サービスレベルが中途半端に感じられるようになっていきました。このころは急行を特急に格上げするのが相次いだ時期ですが、やはり快適性を向上させようとすると、急行ではなく特急にせざるを得ないということもあったのだろうと思われます。勿論、当時の国鉄の財政状況からして、料金収入の大きい特急列車は魅力的であったことも確かでしょうけど。
そこで、国鉄当局では、153系の後継者(車)の検討に入ります。これが言うまでもなく185系なのですが、同系の開発には、183系や485系とは異なる事情がありました。次回はそのあたりのお話を。

その2(№5412.)に続く