昭和47年は春の「ひかりは西へ」のキャッチフレーズも懐かしい新幹線岡山開業と、秋の鉄道開通100年のエポックメイキングな年であった。SLブームが盛り上がったこの時代は「鉄道」が一般社会からも注目を集め始めた時かもしれない。動力車の現場に一般人が立ち入るなど考えられなかったが、「DISCOVER JAPAN」のキャンペーンと共に国鉄も広くイベントに加担するスタンスに変わり始めたように思う。振り返るとこの年は二度の一般公開が行われていた。機関車等の専門的な情報や知識に飢えていた私は広く門戸を開いた一般公開での配布物には満足できず、また撮影も大勢の人で困難を極め早々に引き上げた記憶しか残っていない。
●大分運転所一般公開 昭和47年5月5日
昭和47年5月5日のこどもの日は大分運転所一般公開と久大本線豊後森往復の“おとぎ号”の運転が行われた。動力車は扇形庫に8620・C58・C57が、電気機関車検修庫にED76・DF50・DE10が展示された。開場前の時間だったので人物が入らずに3輌の並びが撮れた。C57とC58のナンバー115が揃う。 S47(1972)/5/5
配布された「大分運転所一般公開のしおり」は運転所の概況と配置輛数、配線図が載ってこれは貴重な資料となった。 西洋紙B4左部分
一般公開のしおりの右部分は展示車輌の配置図が掲載されている。実際の線路配線図のコピーでラウンドハウスとEL・DL・DC車庫部分の配線がよくわかる。広い運転所の一部分なので全体像を見たい願望が湧いてくる。この図面の左側すなわち給炭線や石炭ヤード、DL給油線、DC・PC洗浄線等の入った図を見てみたかった。これこそ当時の私が欲していた国鉄内部資料であった。 西洋紙B4右部分
●鉄道100年記念 運転所汽車まつり 昭和47年10月14日
昭和47年10月14日は鉄道100年記念。鉄道記念日のこの日、大分鉄道管理局は「鉄道100年記念行事 運転所汽車まつり」を開催、車輌展示・SL部品展・ミニトレイン運転実演・訓練機材展・写真展・美術展・盆栽展・模擬店と多彩な催しが行われた。私の興味は罐の並びで、この時現役蒸機はC57115・C58277・D511095で他は他区からの廃車もしくは休車借入れであった。ラウンドハウスの19番から24番に展示された機関車は左からC6124〔宮〕・D511095〔延〕・D6027〔直〕・C57115〔大〕・C58277〔大〕48695〔延〕であった。D511095は秋田から南延岡へ転入したばかり、C58277はこの後志布志古江管理所へ転出、C57115は大分配置唯一の罐、DF50の予備機としてこのまま踏み留まる。C6124・D6027・48695はこの後、所属区へ戻らず小倉工場へ回送されたのかもしれない。 S47(1972)/10/14
直方のD6027が大分運転所でC57115と並ぶ。現役時代の光景なら何と良かったことか。久大本線で稼働したD60はD6027のような継足しの長い化粧煙突を装備した罐はいなかった。 S47(1972)/10/14
C6124は仲間5輌と共に遠く青森から宮崎へ来て日豊本線南延岡~南宮崎間で活躍した。大分運転所の扇形庫に置かれたC61を見て優等列車を牽いて大分~宮崎間を走ったらどんなに良かったかと思ってしまう。D6027と同様標識灯が付いていないので用途を終えた機関車として寂しさがこみあげる。 S47(1972)/10/14
「鉄道100年記念行事 運転所汽車まつり」の配布物は鉄道関連から旅行案内、踏切安全啓発と多彩であったが興味を惹かれたは次のパンフレットである。
大分運転所案内 B4 2ツ折 表紙と裏表紙
内容は大分運転所の沿革と現状、動力車受持運転区間、車輌配置と1日当走行キロが記載されている。昭和35年3月に大分機関区と大分客貨車区が合併して全国で一番大きな組織になったこと、柳ヶ浦・佐伯・南延岡に支所を置き、運転線区は九州全域に及ぶことが綴られている。興味ある数値は1日1車当りの走行キロでELー311.3/DF50ー392.6/DE10ー157.9/SLー0/DCー451.4/PCー156.8とあり、DF50の酷使が感じとれる。またSL稼働車のC57115は予備機の為カウントされていないと思われる。
日豊本線大分ー延岡間CTC A4変形4ツ折 表紙と裏表紙
CTCとは列車集中制御装置の略称で、各駅のポイントや信号機の取扱いをコントロールセンターで集中して操作できるようにしたもの。大分ー延岡間122㎞のブロックごとの駅数が示されている。写真の集中表示盤に示された線路配線図に列車が進入すると点灯したり列車番号が出るこの装置を見て、このような仕事ができたらと国鉄への憧れが膨らむ。
「ひかり」は西へ B4 2ツ折 表紙と裏表紙
「全国新幹線網の構想は昭和60年ごろには全国の主要都市が新幹線で結ばれることになります」と記載されている。夢ふくらむ時代であったと回顧する。
新幹線岡山までの開業でもたらされたスピードアップとその後の博多開業への期待が込められている。「九州内では振子電車やガスタービン動車で新幹線と結びスピードアップをはかりますので、主要都市間の所要時間も大幅に短縮されます」が印象的。
団体専用お座敷列車誕生 A3 4ツ折 表紙と裏表紙
スロ81とスロフ81の車内と編成表が目を引いた。裏面は九州の観光地を線路記号で結び、「のんびり気ままに…道中たのしいお座敷列車」と団体旅行に誘っている。線路で結ばれた観光地は唐津城ー長崎おらんだ坂ー阿蘇山火口ー桜島ー日南ー別府と続き、このコースを走るとすれば唐津から唐津線ー筑肥線ー松浦線ー佐世保線ー大村線ー長崎本線ー佐賀線ー鹿児島本線ー豊肥本線ー鹿児島本線ー日豊本線ー志布志線ー日南線ー日豊本線別府着となる。実際にこのようなルートを走ったかどうかは知らないが、各線の牽引機は何だろうかと思いをめぐらせるのも楽しい。
昭和47年10月14日に開催された「運転所汽車まつり」の1週間前に撮ったネガがあったことに気づいた。露出不足の薄いネガだったのでそのままネガ袋に仕舞ったままであった。改めてスキャンしてみると19番線に置かれたC6124はこの状態であった。はたして宮崎から来たものだろうか。小倉工場からまわしてもらったのではないかと勘繰ってしまう。 大分運転所 S47(1972)/10/8
「運転所汽車まつり」当日はC6124のとなり20番線はD511095が入線していた。1週間前のネガはD51923が写っている。この1週間の間にD51はD51923からD511095に置換わっていた。折しもこの時は羽越本線電化で秋田機関区のD51が南延岡機関区に移動する時期と重なっていた。秋田からやって来る罐を催しに使う算段ではなかったかと思うが、そうなるとD51形式が2輌となるので都合悪く、急きょ廃車になったばかりのD6027を門鉄にお願いしたのではないかと推測する。先に来たD51923を南延岡に送り、後で来たD511095を20番線に据え付けたものと考える。催し開催に当り、機関車のやりくりに苦労した後がうかがえる。今になって思うことではあるが。 大分運転所S47(1972)/10/8