ディーゼル機関車DD54のこと等 | 今日も まっ晴れ! 鉄道回顧録

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 下の写真は昭和48年春に神崎川橋梁で撮った福知山線の客車列車です。この頃、DD54は福知山線や山陰本線東部の主力機で、下の写真は特にDD54を意識して撮ったものではなくて、福知山線の客車列車を撮れば自動的に牽引機がDD54の写真が撮れました。

 

DD54 25

 

 

DD54 39

 

 

DD54 29

 

 

これは何号機でしょうか? キャブ窓が H ゴムなのか否かは此の写真からは判別できませんが、車体に継ぎ目がなく一体化のようで30~40号機の6次形のように見えます。機関室側面の明り取り窓の一つが中央にあり特徴的なので上記のDD54 39かもしれませんね。

 

 

DD54 13

 

 

DD54 40

 

 形式消滅すると言われ出した1976年くらいからDD54の人気が急激に上がりましたが、私はその頃になるとDD54の写真を撮らなくなっていました。 それはDD54が一番華やいでいた頃のことを見ていたし、何やら口にするのも恥ずかしいような悲観的な言葉で形容される事に些かの抵抗もあったからです。

 昨年9月にYouTubeのほうへDD54の動画をアップした際には、鉄道雑誌等によりDD54のイメージを負の印象に摺り込まれた人たちが、C57貨物の前補機だったDD54を見て『DD54の故障に備えて予備車として蒸気機関車を繋げている』と言う、そんな非合理的で現実には絶対にあり得ないような旨のコメントを戴くことがあまりにも多くて、そのジェネレーションギャップに驚いてしまいました。

 

━━━ 閑話休題 ━━━

 

 DD54が国鉄線上から姿を消すことになった頃の1977年に発売された鉄道雑誌には、DD54が特急《出雲》の運用から離脱したのは昭和48年の春として記載され、昭和48年8月にDD51が実際に特急《出雲》を牽いている写真が掲載されていました。それにも関わらず、それから30数年後に発売された鉄道雑誌には、DD54が特急《出雲》を牽いた時期が昭和49年春頃までとする、機関車の配置表から推察されたと思われる記事が何度も掲載され、また各ネットサイトにも同様の記載がなされ、歴史が曲げられてしまった瞬間を目の当たりにした気持ちでした。 (なぜか最近はウィッキペディアでは昭和48年秋とされるようになりましたが・・・)

 Yahoo!知恵袋に至っては、「昭和50年ころ」と言う回答に〔ベストアンサー〕が付されている事に唖然としました。開いた口が塞がらないとは眞にこのことですね(^^ゞ  (改めてYahoo!知恵袋を見返してみると、この回答者は特急《出雲》が2往復体制になってからもDD54が《出雲》を牽いていたとも取れるような回答をして、DD51に運用が変わったのはDD54が形式消滅した1978年と、もうメチャクチャな回答ですね。その上、こんな回答にベストアンサーされているとは、事実が曲げられて行く過程を実際に見る思いがします。)

 

 このように時間が経てば色々な要因が絡み合って、事実とは異なる事象があたかも真実として語り継がれるような流れに憂いを感じている頭の固い頑固じいさんのグチに長々とお付き合い戴いて ありがとうございました。