皆様こんばんは。ブログおよびホームページ管理人の神@北見です。

 

2021年1月15日にホームページ キハ58系イラストを更新した分の紹介が遅れておりこのままでは次のホームページ更新が遅れてしまうので頑張ってご紹介したいと思います。今回は昭和38年度民有債のうち新潟鐵工製の304~312をご紹介いたします。新潟鐵工は割合的には2エンジン車を担当することが多く特にキハ56では最後の5両である210~214以外は全車新潟鐵工製という状態で、1エンジン車製造の割合は低かったです。

 

今回の304~312は、広島に配置された304~307と宮原に配置された308~312に分かれました。広島配置の304~307のうち304~306は最後まで広島管内を離れませんでしたが、307は1972年に1両のみ遠く東北へ転じ、そのまま300番代初期グループでは少数の非冷房車のまま廃車になっています。

308~312も国鉄末期まで大鉄局を離れませんでしたが、「60-3改正」で急行「みささ・みまさか」が減便された際に2308・2311が盛岡へ転じ、2309が広島へ転じています。2310・2312はそのまま向日町に残留し2003年まで修学旅行臨等で活躍していたのは記憶に新しい!?いや、もう新しくないですね…。

なお早期に東北へ転じた307以外は国鉄末期まで広島局・大阪局配置のため全車汚物処理装置を取り付けていました。

 

ではこれらの中から(特徴はあまりありませんが)数両ピックアップしてご紹介したいと思います。

 

キハ28 2305

↑新製より広鉄管内を離れず、「61-11改正」で小郡へ転じていました。急行「さんべ」の最期まで活躍していましたが同急行が1997年に廃止後は黄色になって普通列車に使用されていましたが2000年に廃車になりました。

外観は広鉄仕様であまり特徴はありませんでした。広島管内では前面補強板の形状が数パターンありますが、これは幡生工と広島工で違ったのか、それとも近隣の小倉工にも応援を要請したのか、はたまた幡生内で途中でやり方が変わったのか、良く分かりません。

 

キハ28 2306

↑304~307のグループでは2304と2306が晩年まで広島を離れることがありませんでした。2306は2002年のダイヤ改正で急行「ちどり」「たいしゃく」が運転区間を短縮し「みよし」に統合された際に所要数が減り山口へ転じましたが、黄色に塗り替えられることなくそのまま2004年に廃車になったものと思われます。

 

キハ28 307

↑このグループでは唯一非冷房のまま残った車になりました。この車は仲間で唯一1965年度に米子へ転じ、1972年に盛岡へ転じました。当時山陰地区から東北へ転属するのはレアなケースで同時に408も転属しましたが、408は転属後間もなく4VK付き冷房化され2408になり、後年「エレガンスアッキー」になったのに対し、当車はそのまま非冷房のまま盛岡で活躍しました。「57-11改正」で盛岡担当の急行が大幅に廃止されると同区はキハ58で統一されることになり、キハ28は一ノ関へ転じキハ26やキハ25に代わり普通列車で使用されました。しかし国鉄末期の輸送量見直しや予備車削減、キハ40系の転入によりJRへ継承されず廃車になりました。1両のみ仲間外れみたいになって可哀そうな車でした。

 

キハ28 2308

↑1988年

 

↑キハ28 2308の1995年の姿です。

308~312は宮原に配置されており、急行「ちくま」「ゆのくに」「丹波」「みささ」で主に使用されていましたが「60-3改正」で宮原区配置車が向日町区へと移管され所要数が減ったことから当車は盛岡へ転じ急行「陸中」の冷房化に使用されました。同じく2311も盛岡へ転じましたがこちらはJRへ継承されず1986年度に廃車になっています。勿体ない…。2308は急行「陸中」のキハ110系化後は「月山」用に新庄へ転じ、のちに「南三陸」用に小牛田へ転じましたが、運用数の減少からか1997年に廃車になりました。

当車は新潟配置歴が無いにも関わらず新潟地区と同じ円筒を斜めに切ったようなタイフォンカバーを装備しており異彩を放っていました。

 

キハ28 2309

↑キハ28 2306に似ていますがこちらは宮原由来の車です。2007年の急行「みよし」のラストまで残った3両(2309・2329・3014)の1両でしたので、床下は台車や連結器周りまでグレーになっていました。顔立ちは2306と似ていますが前面補強板の形状で宮原由来車と判別出来ました。

 

↑キハ28 2306 前面補強板の上辺は、強化ワイパーの台座下部のところで直線的になっており、小倉工に類似の形状です。

 

↑キハ28 2309は前面補強板の上辺がもっと上なので、強化ワイパーの台座を避けるように切り欠かれています。大鉄・天鉄局の標準ですね。高砂工場でしょうか。あと宮原車は急行「ゆのくに」や「ちくま」を受け持っていたのでタイフォンがシャッター式に改造される車が多く見られました。ちなみに隣の向日町は「しらはま」「志摩」「くまの」など、京都発着の紀伊半島方面急行が担当でしたのでタイフォンのシャッター化は通常行われません。

 

キハ28 2310

↑兄弟の2312と共に末期まで向日町(後の京都総合車両所)に残留し、波動用や修学旅行などの集約臨に使用されました。しかし集約臨が余剰のキハ181系に置き換えられると2003年に廃車になりました。

関西・近畿・山陰では急行型気動車への急行色堅持の方針が強く、最後まで急行色で人気がありましたね。同じ会社でも色変えの激しい金沢・広島支社とは対照的ですね。

形態的には標準的な関西仕様であまり特徴はありませんでしたが、当時既に「特徴の無い急行色」自体が貴重な存在になっていました。

なお兄弟の2312は1970年代中盤より向日町に転じていたためタイフォンがスリット状カバーのままで、宮原に1985年まで在籍しシャッター式になっていた2310と区別が出来ました。

 

新製配置は比較的まとまっていた同グループですが、その後の転配などで姿を変えてバラバラになっているのが良く分かります。

 

これでやっと2021年1月15日にホームページ更新した分の車両のご紹介が終わりました。これで続きのホームページ更新作業に移ることが出来ます。次回は同1963年度民有債のうち東急車両製の313~328をご紹介したいと思います。この16両はなんと全車和歌山に配置になっています。紀伊半島方面の需要の高さが分かる新製ですね。そして例に漏れず次第に皆散り散りになり形態もバラバラになってゆきます。おっと、続きは次回のお楽しみですね!

 

今回も最後までご覧いただきありがとうございました。それでは次回もお楽しみに!!

 

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にもキハ58系各車の解説がありますのでご覧になってください。