旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

この1枚から 日本の産業、そして生活を支えた石炭車・セキ6000【2】

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《前回の続きから》

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 セキ6000は、セキ3000を改造してつくられました。改造内容は台車を交換した程度で、車体など根本的な構造は変えられていません。台車交換をした程度で、形式を変更となる例はそう多くありませんでした。これは、改造を施すことになった理由にあると考えられます。

 というのも、既にお話したように石炭は比重が軽いため、積載する容積の割には荷重が軽くなってしまいます。言い換えれば積んだ量の見た目は多いのですが、重さは軽いということです。そのため石炭車は容積を大きく取ることで、積載荷重いっぱいの石炭を積むことができるようになっていますが、その分だけ石炭を積んだときには重心が高くなってしまいます。重心が高い状態で高速で走ると、車体の揺れがひどくなってしまい脱線しやすくなってしまうのです。

 実際に石炭車の脱線事故は多く、国鉄でも問題になっていたようです。そこで、脱線事故を防ぐため、石炭車は積車時の最高速度をそれまでの65km/hから10km/h引き下げて、55km/hで運転することにしました。しかし、これには問題がありました。ただでさえ65km/hという低い速度で運転したいたところを、更に低い55km/hでは、他の列車のダイヤに影響を及ぼしかねません。列車の運転本数が少なく、ダイヤ編成に余裕がある北海道は別として、西日本、特に山陽本線では列車の運転本数が多く、セキ3000が55km/hで走れば、他の列車のダイヤ編成に大きな影響を及ぼしてしまいます。

 そこで、セキ3000を積車時にも65km/hで運転できるように、台車のばねを柔らかくしたTR41Bに交換して誕生したのがセキ6000だったのです。こうした理由のため、セキ6000は台車交換だけにとどまったのでした。

 

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セキ6000が装着しているTR41B台車。TR41Aの枕ばねを柔らかいものへと交換した以外、特に手を加えられることはなかった。この枕ばねの交換により、車体の動揺が軽減されて脱線を防止するとともに、65km/hで走行することを可能にした。
2016年7月25日 小樽市総合博物館(筆者撮影)

 

 当初は列車密度の高い山陽本線・広島鉄道管理局管内で運用されるセキ3000に対して改造が施されました。ダイヤ編成に余裕のある北海道で運用されるセキ3000は、改造の対象外となりそのままで運用されました。

 ところが、北海道のセキ3000は改造の対象から外れて55km/hで運転されていたにもかかわらず、同じように脱線事故を頻発させました。そもそも北海道は本州とは異なり、列車の運転密度も低くダイヤ編成に余裕があったため、わざわざコストをかけて65km/hに対応する必要性がなかったのです。しかし、脱線事故が頻発するとなると話は別で、改造の対象外だったのを一転させてTR41Bへ交換工事が施されてセキ6000へと変わっていきました。

 また、九州島内で運用されていたセキ3000も、同じくセキ6000へと改造されていきました。九州北部では、多くの石炭輸送列車が運転されていて、やはり走行中に脱線する危険性があったためにセキ6000への改造を施されたのでした。

 改造によって登場したセキ6000は、その後も石炭輸送に充てられました。改造により積車時の運転速度は10km/h向上し65km/hになったものの、1968年のダイヤ改正で65km/h以下で走ることが限定された車両は、特殊記号「ロ」を標記し、さらに黄色帯を巻くことが規定されたので、改造によって登場したセキ6000はそのまま黄色帯をまいたままになりました。また、北海道のセキ6000は65km/hで走行できる性能を得たものの、未改造となったセキ3000と混用されたこともあってその性能を発揮することはできず、結局のところ55km/hで運転され続けたのでした。

 その後、石炭輸送は国内の炭鉱の縮小とともに減っていき、北海道・九州ともにその用途を失っていくのでした。

 1987年の国鉄分割民営化の時点で、セキ6000は500両以上が在籍しており、すべてJR貨物が継承しました。これは、石炭輸送はほぼ壊滅してしまったものの、その車体構造から石炭に代わって石灰石などの輸送に充てられたためでした。石灰石輸送用の貨車としてホキ2500がありましたが、国鉄末期の財政事情は新しい貨車を新製することを許さず、ほぼ同じ構造をもつ石炭車がその代用として充てられ、廃車・解体を免れて新たな仕事を手にして活躍を続けていたためでした。

 

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セキ7342 2016年7月25日 小樽市総合博物館(筆者撮影)

 

 実際、筆者が九州で見たセキ6000も、こうした石灰石輸送用に転用された車両たちで、地元の南武線を走るホキ2500やその私有貨車であるホキ9500と同じ役目ながらも、どこかかつて炭鉱全盛期を彷彿させるものだったのです。

 ところで写真のセキ6000は、北海道で運用されていたため、最高運転速度65km/h以下を示す黄色帯とともに「道外禁止」の標記も記されています。これは、1968年の時点で北海道内で運用されていた運転速度65km/h以下の貨車はすべて北海道内に封じ込められることになり、本州以南の車両とは異なり「道外禁止」の標記も追加されたのです。この標記がある車両が青函連絡船で本州へ渡ることのないよう、特に函館や五稜郭などでの入換作業時に、操車掛が見つけたときには直ちに編成から外すように注意喚起するためのもので、こうした標記は当然ですが北海道でしか見ることができませんでした。

 かつては日本の産業や経済を支えたエネルギー源であった石炭。その多くが鉄道によって運ばれ、セキ6000のような石炭車がひっきりなしに走っていたのが、国内の炭鉱が次々と閉山していき、その役割を失ったものの、新たな仕事を得て21世紀直前まで活躍していたことは、まさに幸運だったといえるでしょう。民営化により、本来なら運ぶべき石炭もない車両が、石灰石という異なる物資を運んだとはいえ、比較的多くの車両が継承され運用し続けられたことは、日本の鉄道貨物輸送の歴史を語る証人のようだったのかも知れません。

 そして、今日、少ないながらも保存車があるのも、ある意味では喜ばしいものだといえます。

 

 今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

 

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