1989年7月18日の撮り鉄日記
(この日記は1989年7月18日の内容だが、ブログ投稿は2021年1月16日)
1989年7月当時の俺は16歳(高校2年生)
この日は、まだ夏休みには入ってはいなかったが、試験休みだった。
中学からのテツの友人、ゆうずる氏から昼11:30頃に電話があって、
本日のテツに誘われた。
12:30頃、ゆうずる氏の所へ自転車で行って、
一緒に立石~四ツ木の踏切へ…
俺が小学1年~小学2年の6月29日まで通っていた小学校、西渋江小学校へ行く際に、
いつも近くを通りかかっていた踏切だ。
(現在は、その西渋江小学校は無く、看護専門学校になっている)
本日は、京急1500形や、都営5000形を撮るために来た。
確か、もうすぐ都営5000形の旧塗装が無くなるなんて言われていた頃だったと思う。
たまたま来た、京成3000形(初代)を撮る。
当時は、京成3000形といえば、この車両だった。
現在の京成3000形は、あくまでも「二代」なので、だいぶ形状も異なるものだ。
俺は幼少の頃、出かける際は、いつも四ツ木駅から電車に乗っていたのだが、
いつも都営5000形に当たるので、都営5000形(旧塗装)にはウンザリしていた。
だが、「無くなる」となると、もっと撮っておけばよかったな~ってなる。
当時は、ピントもマニュアルのカメラを使っていた。
連写もできない。1コマ1コマを手動でフィルムを巻き上げるというもの。
こうして見ると、置きピンって、2両目か、1両目の中腹あたりに合う傾向があるようだ。
だから、それをわかっていれば、わざと手前にピントを置けば、もうちょっとマシなピントになったのではないか?と考えられる。
フィルムの時代は、その場で仕上がりを確認することはできなかったため、
その場で、「じゃあ、こうすればいい」って判断することができなかった。