久々の空中写真シリーズです。
というのも、昨年末から年明けにかけて、新たに多くの新写真が公開されましたようで、今まで「この時代のこの場所のここが公開されたら良いな~」というものに合致する写真が多く見られるようになりました。
今回の高松港もその一つです。
1945/07/05米軍撮影 高松港
なんと、末期とはいえ大戦中の写真が公開されました。
この日の前日7/4黎明から高松市は大規模な空襲を受け写真はその戦果確認のための撮影と思われますが、高松市中心街は焦土と化して、白く写っています。
その中に白い丸がいくつも見えますが、焼夷弾以外にも通常爆弾が使用された炸裂口と思われます。
一角だけ樹木のために焼け残ったと思われる、元海城の高松城址の脇に箒のような鉄道線路が写っているのが、四国の玄関口、高松駅とその付帯港湾施設です。
空襲翌日にはすでに航路が再開されていることに驚きを感じます。
この時期、開戦前よりすでに増加傾向にあった航路通過物量は、開戦によって右肩上がりで増加することとなり、人/物ともに航送輸送はすでに限界に達しつつありました。
加えて大戦末期の米軍による新型磁気機雷の航空散布による港湾封鎖作戦によって、日本本土内海航路は混乱の極みに達していました。
そんな中、宇高航路でも衝突事故で貨車航送の主力を担っていた第一宇高丸が失われ、輸送効率の低下を招く中、戦時中とはいえ僥倖ともいえる事象が発生します。
1942年9月に秘密裏(公然の!)に開通した関門トンネル(片線のみ)により余剰となった、関門航路貨車渡船からまず3隻が高松港へ転籍、その後2隻が相次いでこれも小森江航路から転入して、従来の第二宇高丸に加え6隻体制で慢性的な滞貨に陥っていた宇高航路への貴重なカンフル剤となりました。
上↑の写真の高松港部を拡大するとくの字に曲がった突堤に何やら「算盤玉」のような船が並んで接岸しています。
更に同型の「算盤玉」が駅構内の航送桟橋に接岸↓しているのがわかります。
空襲からはいち早く渡船/連絡船を待避させたのか、港内の船舶は無傷だったのでしょうか。
隻数からもわかるように、この船が関門航路から助っ人に来港した関門丸型貨車渡船と思われます。
写真はプロトタイプの第一関門丸ですが、大正期竣工の渡船でありバウスラスターなどの設備も無い時代、船首尾前後から素早く接岸せねば成りませんから、動力は外輪駆動!。
外輪の回転方向を逆転させれば良いわけで、外輪船の特徴をよく理解したナイスな着想ですが、如何せん速力は10ノットほど。
この「算盤玉」形状は外輪駆動からくる独特の形状なのですね。
搭載可能な貨車は最大15t積貨車7両。
機関煙突を両舷中央に、ブリッジは門形に左右対称に配され船体中央に1本配線した船内軌道に積み込んで航送しました。
宇高航路では最初この船をそのまま使用することはできず、宇野駅と高松駅に関森航路の施設を転用して関門丸型専用の航送場を設置したそうです。
写真に写っている桟橋に接岸している船を両側から挟み込むような蟹の鋏のようなバージ状の物がそれだと思われます。
ちなみに元々生え抜きの宇高丸型渡船はというと・・・。
流石に昭和生まれの船ですから、関門丸よりもスタイルは洗練されてます。
貨車も15t積を10両搭載可能ですが、速力は遅くなって8ノット強。
戦争末期は宇高客船だけでは足りず、車両甲板に乗客を乗せて運行もしたそうです。
その船と思しき物が・・↓。
戦後、進駐軍が運用して国鉄に引き継がれた軍用LST改造渡船のようにも見えますが、撮影は終戦前ですから、多分コレが第一宇高丸と思われます。
この埠頭は小生も思い出のある高松駅改札直結の構内旅客岸壁ですね!。
当時は貨客船の紫雲丸型は就航しておりませんから、廃止時まであった航送車両用可動橋や引き込み線はまだありません。
全景写真には親船による渡艀曳航航送中、海中に貨車をよく落車させていたといわれる貨車艀(甲板に軌条がある?)と思われる物も写っています。
これらの貨車渡船によって四国の鉄道車両は内地から渡航してきたわけで、地味な存在ではありますが、四国の鉄道躍進には無くては成らない「船」であったわけです。
図らずも敵機F-13による戦略航空写真に捕らえられて、母港はB29の絨毯爆撃にさらされ、加えて青函航路の連絡船群のように敵艦載機の攻撃目標とされて全滅させられたかもしれないものが、戦後も暫く宇高航路を支える大黒柱として生涯を全うできたことは、それこそ僥倖であったでしょうね。
※ちなみに第一宇高丸は戦後すぐに事故沈没していますが、浮揚されて最後は民間に払い下げられてカーフェリーとして生涯を全うしているそうです。
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