風呂に入り晩飯を食っていざ出陣。

雪の積もる漆黒の闇の中でバスを待つ。渋滞なんて全くない田舎の一本道なのにバスは5分遅れてやってきた。

そして可部駅前にとうちゃこ。

僕を運んできたバスは走り去っていった。

ここも昔と比べて大きく変わった。僕が住んでた頃はこんなターミナルなんてなくてただの道沿いにあるバス停だった。この場所、昔は線路とかが敷かれた駅の敷地だったんだがきれいになったもんだ。

おっ、電車が来ているぞ。

ところでこの可部駅。昔の僕のホームグランドで電車に乗るときはここから乗っていた。河戸駅に行くよりも僕が住んでいたところからだとバスがこの可部駅に着くのでこちら側しか使っていない。ちなみに河戸駅は可部駅の1つ隣の駅なんだが可部ー加計・三段峡間は非電化区間となり列車本数も激減するのでほとんど使ったことはない。広島から可部まで帰ってきた時にホームに加計方面の列車が停まっていた時なんかは極々まれに遊びで乗ったことがある程度である。

久々の・・・というか可部線があき亀山まで復活して以来初めてここから電車に乗る。これまではあき亀山で乗り降りしていてその間可部は通過していた。上り下りのホームは改札内ではつながっておらず上下別々の改札となっていた。なんか私鉄の駅みたいである。

踏切ではなく跨線橋で線路をまたぎ上り線の改札に来たんだがその時に「へぇ~こうなってんのか。」と初めて知った。高頻度で運転しているわけではないので構内踏切にすればよかったのに。

可部は始発駅ではないんだが結構長い間停まっている。ちなみに向かいのホームがあき亀山まで延伸するにあたって新設されたホームである。それまでは線路はあったがホームはなかった。つーか必要もなかった。それはなぜかと問われたならば・・・

昔はここに線路がありここに電車が発着していた。

左から1番線、2番線、3番線。今1番線となっているところは以前は3番線ホーム。そこから加計・三段峡方面のキハ40が発着していた。しかしこのレールをめくられたホーム、なんとも無残である。僕の思い出の可部駅が夢の跡みたいな姿となりなんだか寂しいような悲しいような気分になる。

そして列車は走り出す。各駅に停まるんだが各々の駅は面影はあれど当時と姿が変わっているところが多くなんか懐かしいという感じはしない。広島を離れてもう25年だもんな。昔は上八木と七軒茶屋はホームが3両分しかなく朝ラッシュの4両編成の最後尾はドアカットされていた。今ではすべて4両編成に対応したホーム長となっている。高校生の頃、可部から電車に乗って広島の河合塾に行っていたのだが(勉強しに行くというよりもそのあと市内をプラプラするのがメインとなって全く意味がなかった・・・)その頃、可部線に103系や115系が4両編成で乗り入れるようになり「可部線も都会になったのぉ」なんて思ったものである。

そして列車は大町にとうちゃこ。

ここでアストラムラインに乗り換えである。アストラムライン・・・知らない人のために説明しておくと新交通システムである。

東京でいえばゆりかもめや日暮里舎人ライナー、関西でいえばニュートラムやポートライナーみたいなものである。

列車は広島に向け走り去る。

大町駅。

僕が高校2年の時に広島でアジア大会が開催されそのアクセス鉄道としてアストラムラインが開業したんだが、その際に可部線とクロスするこの地に新設された駅である。

というわけでアストラムラインに乗り換えますよぅ。

先ほどもアストラムラインはアジア大会のアクセス鉄道として開業としたと書いたんだがそれまで広島には自動改札なるものがなかった。僕自身はそん時すでに東京や関西の私鉄で普通に自動改札に触れ合ってはいたんだが、この自動改札の登場に「広島も都会になったのぉ」と思ったもんである。

ほいホームですよぅ。ホームドアも広島初登場であった。

ちなみに開業したその冬だったかな?冬に雪が積もりましてね。

ゴムタイヤのアストラムラインが走れなくなって終点の広域公園駅にある広島修道大学に向かう受験生が右往左往したなんてこともあった。

で、アストラムラインに揺られること数分、牛田にとうちゃこ。弟君の家の最寄り駅である。

 

ほぉ~平日の朝は結構な本数があるのね。

で、弟君の家へと向かう。

明日朝一に向かう広島駅。まぁ歩けんことはないかもしれんが時間がないので電車で行く。

で、弟君の家にとうちゃこ。牛田の駅はすぐ目の前である。

弟君お部屋は12階なんだが広島の街を眺められる。

基町クレド。あそこが広島の中心、紙屋町である。

あの左の高い建物、宮島からのフェリーで見えてたやつだな。

あちらは広島駅方面。自転車なら余裕だろうが歩くのはめんどくさい。

というわけで翌朝は4時半起きである。起きれなかったら大変なのでとっとと寝ることにした。   続く