皆さんこんばんは、備前国鉄道です。
9月20日の香川ことでん遠征を振り返るシリーズは、今回で最終回となります。
ここまで10回以上に渡りお読み下さいましてありがとうございました。
瓦町で1分乗り換えをし、琴平線の一宮行きで仏生山に移動して来ました。
↑瓦町~仏生山間で乗車したのは1100形。京王帝都電鉄(現在の京王電鉄)5000系を種車として、1994年(平成9年)6月から11月にかけて4編成8両が投入されました。京王5000系は昭和38年から44年にかけて製造され、前面にパノラミックウインドウを採用するなど当時としては画期的なデザインで、昭和40年代の京王線の主力車両となりました。平成8年に引退後は、富士急行、伊予鉄道、銚子電鉄、一畑電車、そしてこのことでんで第二の人生を歩んでいる車両があります。
ここ仏生山駅は、仏生山検車区(仏生山工場)という車両基地を併設していて、琴平線と長尾線の車両を管理しています。
↑留置線で休んでいる琴平線(黄色)と長尾線(緑)の電車たち。手前から順に1200形(もと京急)、1080形(京急)、1100形(京王)です。
↑長尾線には専用車両基地がないため、琴平線の瓦町~仏生山間を回送して長尾線の仕事へ向かいます。ことでんでは、回送列車を含むすべての列車に車掌が乗務しているのが特徴の1つです。またことでんは有人駅も比較的多く、ワンマン運転&無人駅が当たり前になっている地方鉄道の中にあっては異色です。
旅の最後の最後に再び仏生山に来た理由がこちら。
自分が乗車したのは午前の部でしたが、これは午後の部になります。
午後の部の復路が終点 仏生山駅に到着したところです。
↑わざわざ仏生山に戻って来て撮りたかったのはコレ。通称"羽根急"と呼ばれている急行列車用のヘッドマークです。午前の部の時には取り付けられていませんでした。琴平線では、金刀比羅宮参拝者輸送の全盛期の1958年から1967年まで急行「こんぴら号」が設定されていたことがあり、当時使われていたのがこの羽根急という訳です。
↑仏生山工場の構内に並ぶ電車。ことでんでは、京急から譲り受けた車両が多く活躍していることから、最近は赤と白の京急カラーを再現したラッピング車両が増えています。写真のいちばん左に半分だけ写っている、ラッピング作業中の車両がありますが、数日後に「情熱の赤い電車」として運行をスタートしました。
無事撮りたいものが撮れましたので、これより帰路につきます。
レトロ電車の後続の列車(高松築港行)に乗車。
途中、瓦町駅でことでんグッズを購入し、高松築港へ。
↑仏生山~瓦町間で乗った1080形。レトロ電車の直後の定刻列車ということで、鉄道ファンで満員御礼。今のご時世、満員はあまり好ましくないかもしれませんが、賑わっているのは良いんじゃないですかね。
↑瓦町から高松築港まで、この日最後のことでん乗車車両は1200形でした。高松築港駅にて撮影。
↑BOOK・OFFの主張が激しいホーム上(笑)
歩いてJRの高松駅に移動し、あとはマリンライナーで岡山へ帰るのみに。
ですがここで事件発生!?
改札外のキオスクでお土産を選んでいたら、乗る予定だったマリンライナーが出てしまいました😇
でも心配は要りません。30分間隔ですから。
高松18:10発のマリンライナー54号で、無事岡山に帰着しました。
これにて、香川遠征の記事は完。
明日で2020年が終わりますが、今年唯一県外に出たのがこのことでんの日となりました。
気軽に遠くへ行ける世の中に早く戻ってくれるとを願っています。
最後までご覧くださいまして、ありがとうございました。