皆様こんばんは。ブログおよびホームページ管理人の神@北見です。

 

今日は貨車の整備の後何をしようか迷っていましたが、模型を弄るには時間が中途半端だったのでホームページの更新をしました。今回は小規模かつ地味な更新で、キロ27のイラストを追加しました。

 

キハ58系のうち信越系列(以下キハ57系と略称します)は、碓氷峠のアプト式区間を通過するよう考慮されたグループで、同じく碓氷峠を超えるキハ82系と同じく空気バネのDT31系台車を履いていることが特徴です。そのほかタイフォンカバーなどが寒冷地対応となりました。このキハ57系はキハ58系としては一足先に製造され、第1陣は1961年5月より運用に入りました。この系列は碓氷峠を超える上野~長野間の急行「志賀」に投入され、その後1961年10月1日の大改正で急行「丸池」「とがくし」および直江津まで足を延ばす「妙高」に使用されるようになりました。その後1962年にも増備され、編成の増車及び同じく長野が担当する大阪~長野間の急行「ちくま」の運用も受け持つことになりました。しかし増備が終わって1年にも満たない1963年7月にはアプト式の旧線が廃止され粘着運転が先行開業し、同年の10月1日の大改正で急行「志賀」「丸池」「とがくし」の系統は整理され急行「信州」「志賀」となり電車化されました。その後はアプト式とは関係ないものの碓氷峠を超えるのは直江津まで行く「妙高」のみとなり、これも1966年10月1日の改正で電化により電車化され碓氷峠を超える運用は無くなりました。その後は主に長野行きの急行「ちくま」の運用の他、急行「きそ」に混じったり、循環急行の「すわ」「のべやま」で使用されました。1971年には新潟に代わり北陸本線の急行「ゆのくに・越後」の運用が加わり、長野を起点に急行「ちくま」で大阪へ行き、急行「ゆのくに・越後」で珠洲・新潟へ行き、翌日は逆ルートで長野に帰るという広域運用が組まれました。1975年には急行「きそ」の運用が名古屋・美濃太田へ移管されてキハ57の一部が名古屋・美濃太田へ転出がはじまり、1978年10月1日のダイヤ改正で急行「ちくま」および「ゆのくに・越後」の運用が廃止されると大量に余剰となり、残っていたキハ57の約半数は高松へ転じて急行指定席で使用され、残りの半分は中込に転じて小海線ローカル運用に閉じ込められました。ここで明暗を分けた形になりました。そして今日のテーマのキロ27は用途を失い、当時既にキロ28に付いても余剰廃車が進んでいたことから転用先も無くそのまま廃車になりました。

 

キロ27は晩年活躍していた急行は限られており、前述の「ちくま」および「ゆのくに・越後」のみでした。よって記録に残る機会は非常に少なかった車であると思います。全7両いましたが4両しか確認できておらず残りの3両の形態は不明です。しかも全車キロ28 0番台に相当するグループであまり差異は無かったものと思われます。

 

↑ただし、キロ27 7についてはグリーン車では非常に珍しい特徴があり、キハ車に準じて便所側デッキ外妻にゴミ箱用の出っ張りがあります。他のグリーン車で同様の形態の車を見たことはありませんが、他のキロ27にも同じような車が居たかどうかは資料が少なく分からないのが現状です。

 

またクーラーは、1975年頃の姿では1・4は角型のAU13、5・7は小判型のAU13になっていますがこれは入場時の交換も多いので常にこの形態であったかどうかは不明です。

 

今回はあまりお目にかけることの無いキロ27でした。次は同じ信越用ということでキハ57のイラスト公開を進めるように考えています。

 

今回も最後までご覧いただきありがとうございました。それでは次回もお楽しみに!!

 

是非私のホームページ

 

http://kami-kitami.sakura.ne.jp/index.html

 

にもキハ58系各車の解説がありますのでご覧になってください。