旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

消えゆく「国鉄形」 ~湘南・伊豆を走り続ける最後の国鉄特急形~ 185系電車【13】

広告

 前回のつづきより

blog.railroad-traveler.info

(11)大きな転換、そして終幕へ

 1983年に185系が登場し、新製配置されたのが田町電車区でした。田町と品川の間に設置されていた車両基地群のうちの一つで、列車に乗っていると幾重にも敷かれた留置線などには、東海道本線で活躍しているありとあらゆる車両が群れをなして留置されていました。一見すると一つの車両基地にも見えましたが、車両によって所属が異なり、電気機関車は東京機関区、ディーゼル機関車は品川機関区、客車は品川客車区、そして電車は田町電車区と分けられていたのです。

 このような運転区所の違いは、国鉄時代の長い歴史の中にその理由がありました。そもそも国鉄の列車は、黎明期から蒸気機関車と客車によるもので、とりわけ蒸機の運転をする機関士は、運転系統に属する職員の中でも一格上という意識があったといいます。そして、蒸機を整備する検修職員もまた機関区勤務ということに誇りを持つとともに、常に機関車の状態を最上にするべく様々な努力を重ねてきたといいます。

 一方、機関車に牽かれる客車は客車区の配置でした。客車はあくまで機関車に牽かれている存在だったので、これに乗務する車掌の所属は車掌区で、客車区は客車の検修を担当していました。同じ車両検修に携わっていますが、やはり当時の花形は蒸機だったので、客車はあくまで牽かれる存在、機関区のほうが格上というのがあたりまえだったのです。

 ところが、動力近代化計画の推進によって蒸機は次々と淘汰されていきました。東京機関区は早い段階で無煙化が進められ、蒸機の後継となる電気機関車が配置されてきました。とはいえ、東京機関区は数ある国鉄の機関区の中でも最高峰とも呼ばれた区所であり、その地位は不動のものといって過言ではありませんでした。

 動力近代化計画によって、蒸機は電機に置き換えられていきましたが、同時にそれまでの機関車牽引による列車から、動力をそれぞれの客車に搭載させた電車が加速的に普及すると、その電車が所属する田町電車区も設けられたのでした。

 このように、車種ごとに系統が分けられた運転区所が所狭しと設けられていましたが、1987年の分割民営化後もしばらくはこの体制が維持され続けたのです。しかし、このような区所の配置は国鉄時代なら許されましたが、民間会社になったからには話は別です。同じような業務を、異なる部署が別々に行っているのでは効率が悪く、コストの増大を招いてしまうからです。

 JR東日本は2000年代に入り、それまでの検修部門、そして乗務員部門を分離する施策が推進され、従来の電車区や運転所は、車両配置とその検修を行う車両センターと、運転士などの乗務員が所属する部署へと変わっていきました。田町電車区も例外ではなく、185系など配置されていた車両は田町車両センターに所属し、乗務員は田町運転区の所属と変わりました。すでにこの時点では、かつての名門とも言われた東京機関区は国鉄時代に廃止され、品川客車区と統合の上、品川運転所へと変わっていました。また、その品川運転所も1999年には田町電車区へ統合される形で廃止になり、同時に発足した田町運転所には電車運転士だけではなく、機関区所属だった機関士もここに配置転換されていたのです。

 

f:id:norichika583:20201206162936j:plain

185系200番代 OM09編成 東京駅(筆者撮影)

 

 こうして、185系は居場所こそ変わらないものの、国鉄分割民営化前後から始まった組織改編の波に飲まれて、田町電車区から田町車両センターへと所属を変えました。もっとも、車体に標記される記号は「南チタ」→「東チタ」に変わった程度で、それほど大きな変化があったというわけではありませんでした。

 しかし、これで安泰とはいかなかったのです。

 JR東日本の組織改編はその後も続き、さらなる合理化が進められました。もっとも、元が国鉄であり公共交通機関ではありますが、それとともに民間企業であるので、経営面からの合理化の推進は当然と言えるでしょう。それとともに、田町車両センターが在った一帯は、東京都心でも有数の一等地です。ここを再開発すれば、人や物が集まる一大商業地区を醸成できます。

 また、東北・上越新幹線の建設によって遮断されていた、東京駅と上野駅を結ぶ中距離電車線が2015年に復活し、「東京上野ライン」として直通運転を開始するのを機に、それまで東海道本線と東北・高崎線でそれぞれで運用されていた車両が、一体的に運用できるようになることから、東海道本線では国府津車両センターに、東北本線小山車両センターに、高崎線高崎車両センターにそれぞれ中距離電車を集約し、優等列車用の車両は大宮総合車両センターへ集中配置に変えて、さらに合理的な運用へと変えました。それとともに、誕生以来長らく過ごしてきた田町車両センターは廃止になり、東京総合車両センターの傘下になる田町センターへと改称。そして、規模も縮小し場所も移転した上で、配置車両はなくなり小規模な留置線へと変わりました。

 この組織改編で、185系は0番代、200番代ともに大宮総合車両センターへ集中配置になります。誕生以来、それぞれ別の場所に所属し、塗装も異なり走る路線も違った185系たちは大宮に一堂に会する事になります。

 しかし、この頃から185系も変化が出てきました。

 従来、大宮所属のOM編成と、田町所属のB編成はもとを正せば同じ200番代です。「新幹線リレー号」の運用終了とともに余剰化した一部の車両が田町へ配置転換となり、「踊り子」などで運用されていたのですが、大宮への集約で200番代が全編成揃うことになります。しかし、そもそも200番代は近距離特急列車として運用されていましたが、それでも余剰化した車両もあり、季節列車などの波動輸送用として使われていた麺もあったのです。ところが、ここで200番代が揃うとなると、さらに余剰が出るようになります。もともと国鉄が製造の根拠としていた近距離特急列車は、「なすの」は利用不振で早々に廃止になり、「谷川」も利用者減少によって土日運転の臨時列車へ、さらには土日運転も取りやめて繁忙期だけの季節列車へと格下げ。定期列車として最後まで残った「草津」は、2014年に常磐線の「スーパーひたち」で運用されていた651系をリニューアルした651系1000番代に置き換えられて定期運用を失い、もはや200番代の活躍の場は「踊り子」のみとなってしまいました。

 当然、200番代はかなりの余剰を抱えることになりました。余剰となり用途のない車両をいつまでも抱え込んでいるわけにもいかず、すでに車齢も40年近くが経っていることから淘汰が始まってしまったのです。

 7両編成を組んでいた200番代のうち、2013年7月に団体輸送などの波動輸送用へ転用することになった編成から、サロ185を抜き取りこれを廃車にしていきます。2014年5月には、田町から大宮に転じてきた200番第7両編成のB2編成が編成単位で廃車となったのを皮切りに、200番代を中心に廃車が進められました。サロ185を連結した7両編成で残る200番代は、この稿を執筆している時点ですでに3編成のみとなり、すべて新前橋に新製配置、田町に転じることなくそのまま大宮へ集約されたOM編成のみとなりました。

 

f:id:norichika583:20201206163006j:plain

185系0番代「踊り子」 A8編成 2020.11.24 戸塚ー大船(筆者撮影)

 

 また、0番代も淘汰が進められました。田町に新製配置された10両編成のうち、2編成がすでに廃車となってしまいましたが、こちらは「踊り子」のメインとしての運用もあり、「湘南ライナー」などといった需要の旺盛なライナーでの運用もあるため、比較的温存されている方でしょう。いずれにしても、大宮集約後はその数を徐々に減らし、2015年以降は一気に淘汰が進められてきたのです。

 そんな中、波動輸送用としてサロ185を抜き取った編成は、それなりに活躍の場を得ていました。中でも、毎年5月から11月頃まで運転される、首都圏対日光の集約臨時輸送列車、いわゆる「修学旅行列車」は運転本数が比較的多い列車と言えるでしょう。

 従来は大宮所属の183・189系で運転されていましたが、2014年1月にOM101編成が廃車されたのに伴い、その任を185系が引き継ぎました。筆者は仕事柄、この集約臨時輸送列車に乗る機会を何度か得ましたが、183・189系時代は乗降用のドア幅が700mmと狭く、大きな荷物を抱えた子どもたちを乗せるのに苦労したことを思い出します。しかし、さすがは特急用の車両だったので車内は快適そのもの。小学生時代に乗った167系のボックスシートとは比べものにならないほどの居住性の良さに、3時間ほど乗っていてもあまり疲れなかったものです。

 2015年にも集約臨時輸送列車に乗る機会がありましたが、すでにこの時には185系へと使用車両が変わっていました。もちろん、185系は筆者が好きな車両の一つだったので、これがホームに滑り込んできたときは胸が高まったものですが、ドア幅は1000mmへと拡大したので、乗り降りにはさほど苦労しませんでした。車内もリニューアルされていたので、座席も座布団も厚いリクライングシートで、やはり快適でした。もっとも、特急形と急行形の折衷的な設計だったので、開閉可能な窓は静粛性に劣りましたが、それでも3時間の行程は苦になりませんでした。

 また、土日運転の「はまかいじ」も2019年を最後に運転なくなりました。これは、利用者の減少という後向な理由ではなく、京浜東北根岸線のすべての駅にホームドアを設置することに伴うものでした。京浜東北根岸線では4ドアのE233系が運用されていますが、これに合わせたホームドアを設置すると、2ドアの185系が使えなくなってしまうからです。横浜市内から甲府、さらには松本まで乗ることができる「はまかいじ」はそれなりに需要も多かったことを考えると、「はまかいじ」の廃止は残念でなりませんが、これも時代の流れなのでしょう、仕方のないことと諦めるほかありません。この「はまかいじ」の廃止によって、京浜東北根岸線横浜線を走る優等列車は、30年弱の歴史に幕を閉じたのでした。

 そして、ついにとでも言うべきでしょうか、JR東日本から2020年3月のダイヤ改正をもって、185系の定期運用を終了するという発表がありました。1981年に誕生して以来、39年に渡る歴史に幕を閉じようとしているのです。

 

 

《次回へつづく》

 

あわせてお読みいただきたい