中央東線はかつて計8つものスイッチバックを擁していたいわゆる"スイッチバック銀座"であった。開業当初より南アルプスを越える中央東線の難所にはスイッチバックが非常に貢献していたのだが、昭和45年前後にそれらのスイッチバックは軒並み廃止になり、以後中央本線が類なく険しい山岳路線であるという印象は薄れた。以前からそれらスイッチバックの遺構を辿ってみるのも面白いかもしれないと思っていたところで昨日、解禁されたその日の18きっぷでそれらのうちのいくつかを回ってこようと行ってきた。

 

 

 

最初に訪問する初狩駅は書類上は中央本線で唯一、現役のスイッチバック駅である。旅客ではなく貨物専用とのことであるが、工事臨時列車が時々入線するくらいのものであるらしい。

 

 

 

 

 

現在のこの初狩のホームは見ての通り、ちょっとアブない感じで傾いている。かつてのスイッチバックの途中に作られたために、ホームを安定して拵えられる程の平地が用意されていなかったからであろう。

 

 

 

 

 

ホーム上に降り立ち、電車が行ってしまうと静かで、かしがましい野鳥の鳴き声と近くの砕石場のファンだかモーターだかのブゥンとした音以外に聴こえてくる音は無い。ちなみに一番右の側線はその砕石場へと続いているレールであるらしい。

 

 

 

 

 

駅舎の位置は当時と変わっていないため、駅を出る際は、スイッチバック時代の駅構内を横断して出るかたちになる。

 

 

 

 

 

線路の終端から旧初狩駅構内を臨む。工臨が時々入線して来るほかは保線車両の基地として使用されているみたいであった。

 

 

 

 

保線車両が止まっているあたりの広めの空き地にかつてホームが存在していたというが、現在の位置に移転してからすでに50年が経過しているためにその痕跡は認められない。

 

 

 

 

駅構内から甲府方面に引き延ばされた引き上げ線の線路がかなりキレイに残っていた。

こうした線路を歩く時は決まって、まるで自分が死体を探しに行く少年たちの1人になった気分になる。脳内に流れるのはもちろんベンEキング。束の間の青春の良い香り‥。もっとも、この線路は50m先で尽きていたのだが。

 

 

 

さて、駅に戻り、次の列車に乗って向かうのは中央本線・辰野支線の旧東塩尻信号場である。善知鳥峠の山中にあるこの信号場はみどり湖経由の現在の本線が開通するまでは、列車の高速化の都合からスイッチバック構造を有していた。少し遠いが、廃線マニアには有名で、ぜひともこの目で見ておきたいと思っていたのだ。初狩からとにかくひたすら西へ揺られて行く。

 

 

 

 

勝沼や塩山に差し掛かると、沿線のぶどうたちが冬枯れのしどけない姿を晒していた。対照的に、その遠くにひろがる甲府盆地は全体が霞にほんのり煙っていて美しく、幻想的だった。

 

 

 

この先、韮崎、新府、穴山と3駅連続でスイッチバックが続き、このあたりがいかに険しい難所であったかがわかる。穴山では当時の引き上げ線の線路が現存しているのが車窓から分かった。

 

 

そして2時間半ほどの乗車で、中央本線のみどり湖に着いた。ここから東塩尻信号場に行くには本線からアプローチした方が近くて良いのだ。それにしても東塩尻へ行くのに、それを廃止に追いやった本線側からアプローチするなんてなんと皮肉なことかと思ってみたり。

 

 

 

 

東塩尻の街は全体的にひっそりとしていてネコと車しか見ない。10分ほどで住宅地の外れに抜けると、山道に入る。東塩尻信号場のある辰野支線の路盤へたどり着くには山の斜面にとってつけたような急坂を登らねばならなかった。

 

 

その道は路肩に生えているすっかり裸になった針葉樹林から伸びた幾千もの梢で覆われていて、昼間でも暗くて不気味だった。見上げた樹木の隙間からは憂鬱な灰色のぶ厚い雲を戴ける。さらにその斜面の上から見下ろしたところには墓地があり、この時点ですっかり縮み上がってしまうオレ。それでも最後の気概を振り絞ってなんとか山頂の廃信号場にたどり着いた。

 

 

 

 

 

 

聞いてたのと違う!と思わず叫んでしまった。事前に調べた写真から、線路跡は綺麗に草を刈られてずいぶん開けたイメージを持っていたから最初はどこが写真の場所か分からなかった。やっと見つけた時、そのあまりの荒廃ぶりから"撤退"の二文字が真っ先に頭に浮かんだことは言うまでも無い。というかこれは夏だったら完全にダメだっただろう。

 

 

 

 

まあでもここまできたのだから行けるところまでは行こうと歩を先へ進める。

すると先人たちの轍がすぐに現れて途端に歩きやすくなり、とりあえずホーム跡まで行くことが出来た。

 

 

 

 

 

 

 

 

しかしそこは想像していたよりも自然というものが幅を利かせていた場所だった。自然が、人間に侵食されて一旦は奪われたかつての権威を、時の流れの下にゆっくりと取り戻さんとしていた。ここではじめて自然がありのままの姿を見せたような気がして、途端に外界の刺激に対して色々と敏感になった。惻々と身に迫ってくる山奥の寒さ、13時にしては異様な暗さの樹海に対する恐怖、加えていつ野生動物が登場するやも分からない恐怖とが相克して、絶望感に満ちた不安に誘われる。この時ばかりはスイッチバック跡など放り出してめちゃくちゃ帰りたかった。一通り撮影し終えたら、逃げるようにその場を去った。

 

 

 

 

 

山中での恐怖体験を経てみどり湖に戻ってきた。駅に着いてもやはりさっきの怖さは消えずに、電車が来るまでの10分間がとても長く感じられた。自分には山奥をさまよい歩くような本格的な廃線探索はムリだなあ、とつくづく悟った。。

 

 

最後のスイッチバックは小淵沢の一駅となりの長坂にある。先ほどの韮崎新府穴山の3連続スイッチバックとは間の日野春を挟んで隣であるので、このあたりの勾配の険しさを象徴する存在の一つである。他のスイッチバックと比べて当時の遺構が比較的そのまま残っているということでこの駅を選んだ。上り電車が駅手前のカーブを曲がりきると車窓右下に当時の引き上げ線の跡が現れた。

 

 

 

 

 

長坂も他のスイッチバック駅と同じく、本線の勾配の途中に設けられた駅である。よくよく観察するとホームが勾配に沿ってけっこう傾いているのが分かるのが面白い。

 

15時半の今になるまで昼寝を食っておらず空腹だったのに気づき、駅前のそば屋でデカい唐揚げがのった山賊そばをもりもり食べてからスイッチバックを見学することにした。

 

 

 

 

 当時の長坂駅まで続く乗降線がほとんどそのままの状態で残っていた。長坂においても初狩と同様に現在は保線車両の留置線となっている。今回、車内から観察した限りでは、中央東線のスイッチバックのうち当時の引き上げ線が現存しているところはその全てが保線車両の留置線として転用されていた。

 

 

このように一日中(半分は列車に乗っていたが)中央東線を見て回っていたが、これらのスイッチバック跡には自然との融和の姿勢が見て取れるような気がする。近代文明は自然の脅威に対して絶えず、人間にとって住みやすいように工夫し続けてきた。スイッチバックというものには、そうした一見どうにもならないような自然に対しての先人達の試行錯誤の痕跡が生々しく現れているように思う。あの善知鳥峠の山中でそのありのままを見せたような自然を前にして、痛い程そう感じる。

 

とにかく、現代の感覚のように自然に対して横車を押すようなことはせずに、自然の特性を理解してそれを上手にやり過ごすスイッチバックは、とても人間味にあふれているシステムのような気がしてなんだか素敵じゃないかと思ったのだ。生き物に対するような親しみを込めて最後のスイッチバックに別れを告げ、ようやく帰路についた。