丸八真綿と云えば、1977年に高見山大五郎を起用し"二パーイニバーイ"と、テレビCMのキャッチコピーで当時話題となりましたがこの話が通じる人も減ってしまいましたねショボーン。今回はそんな丸八真綿が所有していた大型バスのお話ですニコニコ

丸八真綿では工場間の輸送や、会社のレクリエーション用途として、観光バスのような、立派なバスを所有していました。
自家用(丸八真綿)
浜松22て…7
日野P-RU638BB(1988年)
1993年4月16日
撮影当時の丸八真綿所有車のなかでフラッグシップだった7号車日野ブルーリボンスーパーハイデッカーです。定員45名で車内は土足禁止、通路は紅い絨毯が敷かれていました照れ。ワイドサスペンション装着車だったので、型式はRU638BBでした。しかしこの塗装を観て、『んうーん?』と思われた方もいらっしゃるかも知れません(特に長崎県の方)
島原鉄道観光バスガイドマップより
島原鉄道の観光バスは、1980年頃の日野RV・RS系のメーカーのサンプルカラーでした。メーカーのサンプルカラーは秀逸なものが多く、日野ブルーリボン(BD10:1952年〜)は北海道各地のバス会社で多く採用されたほか、この後の日野RS340のサンプルカラーは奈良交通貸切車に採用、現在まで引き継がれています。

丸八真綿は1962年、浜松市で株式会社丸八織物布団部として会社設立。創業者は岡本八ニと岡本一八で、当時浜松は高度成長期の折で全国から就職で多くの労働者が汗を流し懸命に働いていた時代。「休みなく働く人たちに、ひとときでも最高の眠りを届けたい」そんな想いから、お家を一軒一軒訪ねて歩く訪問販売方式を行い業務を拡大していきます。これが丸八真綿販売モデルとなります。
社是に掲げた「真理の綿(わた)の追求」に象徴される理想の寝具づくりを研究開発し、1969年に社是を織り込んだ株式会社丸八真綿へ商号変更を行いました。
先述のテレビCM放映により広く消費者の知るところとなり、現在では羽毛布団、羊毛布団、ベッドなどの寝具の訪問販売ほか寝具のレンタル・クリーニング、法人向け営業のほか不動産賃貸事業も行なっています。
自家用(丸八真綿)
浜松22て…3
日野K-RS360P(1980年)
1993年9月
自分が初めて丸八真綿のバスを観た時の最古参車は写真の日野K-RS360Pでした。側面窓は全て固定窓側面扉は左右から合わさる後のプラグドアとは異なる開閉方法でした。当時静岡県内では富士急行伊豆箱根鉄道バス日野K-RS360Pの導入はありましたが、静岡鉄道遠州鉄道は引き続き日野RV系を導入していたため静岡県西部では大変珍しい存在でした。


日野スケルトンバスとして、1977年に登場した日野RS120は国産初の量産型スケルトンバスとして、従来のモノコックバスとは外観を異とし、大きな視界を確保し、スーパーハイデッカーでは尚も眺望に優れており当時の業界に大きな影響を与えます。富士重工も1981年にR3ボデーを登場させ、後発となった三菱ふそうは呉羽車体で1982年にサンシャインデッカーを発表しましたが、前後面は大きなガラスを採用しますが側面は連続窓を採用するものの、実質的にはセミスケルトンバス1983年のエアロバス登場まで、西日本車体1983年の58MC登場までは同様、急場を凌ぎました。
 自家用(丸八真綿)
浜松22て…4
日野K-RV762P(1981年)
1993年11月
続いて導入された4号車はモノコック車体に戻り、鈍重な雰囲気となりますが、側面窓は固定窓でブラックのスモーク窓となっており通常の貸切仕様車と異なる雰囲気を持つ車輌でした。
フロントグリルは富士重工R 13観光バスグリルに似た独特なグリルを取り付けた日野車体工業横浜工場の車体を架装をしていました。
背後を見ると、モノコックバスではよく見られたエンジンルーバー(金網)がありません。排気ガス規制とともに騒音規制が始まり、背面に見られたラジエーター付近の金網が無くなりました。4号車ワイドサスペンション採用車車体、走行性能とめハイレベル車であった事が分かります。撮影時には既に丸八真綿を退役し、別の個人所有車となりましたが、まもなく姿を消しました。
自家用(丸八真綿)
浜松22て…8
日野U-RU1HHAB(1995年)
2001年5月18日
丸八真綿所有のバスで最後に導入されたのは日野セレガFCでした。エンジンはH06C-TI(240ps/3200rpm)と車体の割にやや力不足を否めないパワーです。シフトポジションも通常のバスのように右上より®️①②③④⑤⑥‥ではなく①②③④⑤⑥®️であり、乗りにくくもありました(自分が勤務するバス会社の同型車の話)。