1960年12月4日は、都営地下鉄1号線の押上-浅草橋間が開業した日です。

即ち、2020年は都営浅草線・・いや、都営地下鉄が誕生して60年という節目の年になります。

都営地下鉄はその後、6号線 (三田線) 、10号線 (新宿線) 、そして12号線 (大江戸線) と路線を増やしていき、現在は総延長109.0kmとなりまして、東京メトロと共に首都東京の地下を縦横無尽に駆け巡っています。

 

1号線は最初から京成電鉄、京浜急行電鉄との相互直通運転を念頭に置いており、開業時は京成線と、そして1968年から京浜急行との相互乗り入れを開始しました。この関係で、それまで1,372mmだった京成のレール幅を都営地下鉄、京浜急行に合わせるため、1,475mmにしたのは有名な話です。また、開業時から 「1号線」 という線名だったのを、1978年7月から1号線が浅草線、6号線を三田線と改称しました。この当時未開業だった10号線は、同年12月の開業時から 「新宿線」 という路線名を得ています。

 

さて、ここからは殆どリブログになるんですが、私にとって浅草線は 「地獄行きの電車」 と形容せざるを得ません。

幼稚園の時、虫歯になった私は、誰かの紹介で高輪台の歯科に通うことになりました。我が家の裏に歯医者があるにもかかわらず、わざわざ高輪台まで行かされました。後から聞いた話では、 (自宅裏の歯医者で) 断られたそうです。

それで都営浅草線に乗ることになるのですが、その当時はまだ 「都営1号線」 と呼ばれていた時代。そして日本橋駅は江戸橋駅という駅名でした (江戸橋が日本橋に改称されるのは1989年のこと) 。確かに、営団地下鉄東西線と銀座線の日本橋からは少し離れていますしね。

そして、やって来る電車は、画像の5000形。浅草線の初代車両ですよね。最初に見た5000形の印象は、 「京成によく似た色だな」 ということ。確か、5000形は乗り入れ先の京成赤電に合わせた色調にしたと聞いたことがあります。

 

それから、浅草線は幼き私にとって、カルチャーショックの連続でした。

まず、 「八千代台へ行く電車」 としてインプットされている京成電車がやって来たこと。まぁ、都営浅草線と京成線は相互乗り入れをしているから、当たり前っちゃあ当たり前なんですけど、 「相互直通運転」 という言葉を知らない時代。 「なんで “やちよだいへいくでんしゃ” がここにいるの?」 という疑問しかありません。

 

もう一つは、その 「八千代台へ行く電車」 に混じって、赤色に白い腹巻きをした電車がやって来ること。言わずと知れた京浜急行の電車なんですけど、それが私にとって初めての京急との出会いでした。そして、京急を見た時のインパクトは今でも覚えています。だって、

「なんでまるのうちせんがここにいるの?」

と母親に聞いたくらいですからね。赤くて白い腹巻きだけで丸ノ内線の電車を連想なんざぁ、さすが、幼児ならではなんですけど、地獄へ行くのとは裏腹に、江戸橋-高輪台間は地下線ながら、その風景に目が右往左往していました。でも、泉岳寺を過ぎると、そのテンションが急激に下がります。治療中の地獄絵図によって、帰りのことは全く覚えがありません。何でも、全ての治療が終わった時、歯科側から 「もう、来ないでくれ」 と事実上の出禁になったらしいですから。私は好き勝手に泣きわめいていましたけど、母親の心境は 「早くこの時間が過ぎてくれないか・・」 というものだったに違いありません。

 

というわけで、浅草線の5000形は、別の意味で記憶が深い電車です。思い出したくないんだけど。

5000形は1981年から外板塗色が変更になり、1995年まで活躍しました。

そんな浅草線も、今や第三世代の5500形が勢力を伸ばしつつあり、乗り入れる車両もバラエティ豊になり、当初は単に京成や京急と乗り入れるだけだったのが、それを応用して、空港アクセスの重要路線として位置づけられるようになりました。

 

浅草線といえば、宝町だったか、東銀座だったか、そこから分岐して東京駅乗り入れを画策しているんですよね。

空港から新幹線へのアクセスを容易にするための計画だそうですが、ホントに出来るの・・・?

 

【画像提供】

を様

【参考文献・引用】

鉄道ピクトリアル臨時増刊号 No.704 (電気車研究会社 刊)