国鉄末期における車両の需給関係は、特に頭の痛い課題だったという話は何度となく聞いたことがありますが、とにかくお金がないから、老朽車両を取り替えたくても新製が抑制されてしまっていたので、ホントに必要最小限でしか新車が投入出来ないのが昭和50年代後半から民営化までの実状で、それも東京、名古屋、大阪といった都市部に限定されており、地方のローカル線は昭和30年代から40年代にに製造された古ぼけた車両を騙し騙し使っていたのというのが、当時の国鉄に置かれた状況でした。

 

そんな中、昭和57年11月の改正で広島地区が始めた高頻度運転の国電形ダイヤが他の地方都市部でも推し進められることになり、仙台、金沢、静岡などで展開されるようになります。大都市ほど乗客が多くないので、それまで長々と連ねていた編成を短くし、基本的には3~4両でラッシュ時にそれを2本つなげた6~8両にして、その分、列車の本数を増やして日中でも10~15分間隔で運転するというシステムを総称して 「シティ電車方式」 と呼びます。

併せて、こういった地方都市部では昭和50年代まで機関車牽引による客車列車が残存しており、しかもその大半が無骨な旧型客車。新型の50系への置き換えも進められていましたけど、速度的には電車列車に劣ってしまいます。そこでそういった客車列車を電車化してスピードアップも合わせて行われ、乗客には概ね、好評を持って迎え入れられました。

 

しかし、国電形ダイヤにするのはいいけど、肝心の電車が足りない。広島地区では115系 (3000番代) を新製しましたが、他の地区では新車は投入されませんでした。また、編成を短くすることで必要になってくるのが制御車。でも、どうしても不足してしまうので、苦肉の策で考え出されたのが中間車を先頭車に改造するというものでした。中間車の片端をぶった切り、そこに先頭部だけを新たに拵えてつなぎ合わせるというもの。殆ど模型の世界なんですが、まんま先頭車を新製するよりかはコスト的にもリーズナブル。特に多かったのが115系で、新潟、長野、岡山地区などに配備されました。

 

一方、交流電化である仙台、金沢、福岡地区でも国電型ダイヤを設定するのですが、交流あるいは交直両用の車両は直流用に比べると遥かに高価。おいそれと新製は出来ません。そこで考え出されたのが急行用の車両を通勤形に改造するというもの。彼方此方で急行列車が廃止され、455系や475系といった交直両用の急行形車両は行き場を失っていました。最初はそのままのアコモデーションで普通列車に充当されたりしていましたが、2扉のデッキ付き車両なので、特にラッシュ時で支障をきたします。このままだといつまで経っても列車の遅延は解消されないと、455系と475系の一部を改造して通勤用 (カテゴリー的には近郊形) に改造しました。そうして出来たのが413系 (北陸本線向け) と717系 (東北本線と鹿児島本線向け) でした。

 

そして、ここからが本題なんですが (前置きが長過ぎっ!) 、急行形車両の改造と並行して、もう一つ目を向けたのが特急用の581/583系でした。

「世界初の座席・寝台兼用電車」 という謳い文句で華々しくデビューした581系 (60Hz区間限定) と、その増備形である583系 (50Hz/60Hz兼用) は、昼は座席モード、夜は寝台モードになって東へ西へ、とにかく休むことを知らない働き者の電車でした。裏を返せば、 「国鉄は “労働車” に休憩・休息を与えないブラック企業」 ということになるわけですが、 「月光」 「みどり」 「つばめ」 「はと」 「しおじ」 「明星」 「彗星」 「きりしま」 「はつかり」 「はくつる」 「ゆうづる」 「みちのく」 など、数々の特急に使用されました。しかし、人間も働きづめではぶっ倒れるのと同じように、581/583系も働きづめで、彼方此方で故障が相次ぎ、五体満足の車両はいつの間にか皆無になりました。追い打ちをかけるように、時代は 「質より量」 から 「量より質」 を求めるようになり、寝台客車は二段式が主流となっていき、特に夜行運転時は音が静かな客車の方がアドバンテージがあり、時代の寵児だった581/583系使用の寝台特急は一部が14系や24系 (25形も含む) といった新型の寝台客車に置き換えられ、とどめは昭和59年2月のダイヤ改正における、関西対九州への寝台電車全廃と芋づる式で 「有明」 と 「にちりん」 が485系に一本化されたこと。これによって581/583系に余剰が発生しました。実際は57.11改正で余剰は発生していたのですが、59.2改正はその集大成と言えるもの。食堂車はそのまま廃車されますが、先頭車と中間車については再活用されることになり、前代未聞の 「特急形→近郊形」 への改造が実施されることになりました。九州地区向けと東北地区向けには交流用の715系、北陸地区向けには交直両用の419系へと、それぞれ生まれ変わったのですが、当の581/583系にとっては、プライドをどれだけ傷つけられたか計り知れないものがあります。

 

このコーナーでは、九州向けの715系0番代と北陸向けの419系は何回か取り上げたことがありますが、東北向けの715系1000番代は初登場となります。

簡単に言ってしまえば、715系1000番代は715系の寒冷地向けバージョンで、耐寒耐雪装備が盛り込まれています。乗降用扉も半自動化された以外は、0番代に準じた仕様で改造されています。

画像の先頭車は偶数向きのクハ715 1000で、全車がクハネ581から改造されています。反対側、つまり奇数向きのクハは1100番代と分けられており、こちらはサハネ581からの改造になりますが、0番代では床下取り付けだったタイフォンを運転台下部に移したことが特徴。

 

 

これが編成表です。言うまでもなく、括弧内が種車になります。改造はいずれも昭和59年度中に行われ、土崎、郡山、小倉の3工場で実施しました。581系の電動車グループは全て715系0番代の改造種車になったのと、1000番代の投入線区が50Hz区間になるため、種車は全て583系の電動車となります。また、交流専用になるため、直流機器類等の “イチモツ” は取っ払われています。

715系1000番代は編成表にもあるように、全車が仙台運転所 (仙セン~現在のJR東日本仙台車両センター) に配置され、昭和60年3月のダイヤ改正で営業運転を開始しました。仙台地区を中心に、北は一ノ関、南は黒磯までと運用区間が幅広く、さらに仙山線 (仙台-愛子間) と奥羽本線 (福島-庭坂間) にも入線しました。

そのままJR東日本に継承された後、平成10年まで活躍しました。

 

保存車両については、門司港駅の至近にある九州鉄道記念館にクハ715-1が保存されていますが、車番は種車のクハネ581-8に変えられており、オリジナルのカラーに塗り替えられていますが、室内までは元に戻すことが出来なかったようで、715系のままになっています。1000番代と419系には正規の保存車両はなく、以前お伝えしたように、419系の1両が廃車体として業者に引き取られた後、そのまま置きっぱの状態になっています。

 

581/583系は全部で434両が製造されましたが、そのうちの約3割強にあたる153両が近郊形に改造されました。

私も含めて、大多数の鉄道趣味人が 「キワモノだっ!」 とそっぽを向いたのですが、同時に国鉄の凋落をまざまざと見せつけられました。子供故に事情を深く知らなかったというのもありますが、ブルートレインとエル特急群に興奮し、ダイヤ改正の度に増減を繰り返す同列車たちに一喜一憂していた時代とリンクはするんですが、そこまでヤバくなっているのだと感じたのが優等列車用の車両がローカル列車向けの車両に改造されたことがきっかけでした。

そうでなくたって、国鉄は職場全体が腐敗しきっていたので、 「国の財産の改悪」 はそういった職場風土が撒いた種・・・ということでしょうね。

 

【画像提供】

は様

【参考文献・引用】

鉄道ピクトリアル No.576、715 (いずれも電気車研究会社 刊)

ウィキペディア (シティ電車、国鉄715、419系電車)