伊豆半島に鉄道敷設をと立ち上がったのは、東急の「伊豆観光開発構想」であった。
実は五島は、昵懇の間柄であった伊豆半島出身の政治家である小泉策太郎に、「是非、我が郷土である伊豆に鉄道を」
との懇願を度々受けていたのであった。
昭和28年、五島は伊豆観光開発構想を樹立した。
昭和31年、東急は伊東~下田間地方鉄道敷設免許を申請する。
地元住民にとって、この出来事は正に晴天の霹靂で明治以来、悲願達成への新たな光明となったのである。
下田では急遽、「伊東・下田鉄道敷設促進下田同盟会」が結成され、下田までの鉄道敷設を第2の黒船の到来と称した。
その実現に下田全住民一丸となり、東急に縋ったのである。
五島はこれについて、こう語っている。
「この鉄道の敷設を申請するに至った動機は、5年前の私の70歳のお祝いに、東急関係者が集まって、伊東に「古稀庵」という別荘をくれた。
それで始終伊東に出かけて行ったのであるが、その時に考えついた事なのである。
あの路線は大正11年だかに制定された鉄道敷設法に依って、国鉄が建設すると決めてある。
所が昭和13年に第1期工事である熱海〜伊東間が完成してから、それから先は、今日まで18年間もほったらかしにしてある。
予算が無いと言う事で、国鉄では中々施行しない。
伊豆半島は富士箱根伊豆国立公園の一角として、国際的にも名高い観光地でありながら、その南半50キロと言うものは、伊豆線の開通以来18年もそのまま放置されている為、特にその発展が遅れているのである。
そこで、伊東と下田とを鉄道でつなぎ、この地域に東京から僅々3時間前後で行けるようにしたら、対外的には外人客を誘致して、国家に莫大な利益を与える事になり、対内的には安価で快適なレクリエーションの場を提供できる。
たとえ鉄道敷設法で決められている路線でも、国鉄でやらないときは私鉄に建設させる事ができると言う事になっているので、今度東急で申請した訳である。
地元では、鉄道が今日できるか、明日できるか、と首を長くして待っているのである。
先日の公聴会でも、賀茂郡の婦人団体の60何歳かになるある代表が、鉄道ができるという話を耳にしたのは、自分の24~25の娘時代だった。
それから今の年になるまで30何年間、ついにこの目で線路の敷けるのを見る事はできないのかと諦めていた所、東急が鉄道建設を申請したと聞いた。
たとえ自分の存命中にできなくても、せめて子供達には、自分の土地に線路が敷ける所を見せてやりたい。
それは我々親子2代、3代の悲願なのだ、と涙ながらに訴えたと言う事である。
私が鉄道の経営に自ら当る様になってから約35年になるが、まだ一度も自分で出願して、自分で建設したと言う鉄道はない。
他人のやりかけたものを引き受けたか、或は買収、合併したものかである。
この伊東〜下田線は、私の75年の生涯で、初めて自分で出願し、自分で建設する鉄道なのである。
それだけに、私としては非常な熱意と信念を持ってこれを完成したいと思っている。
私は2~3年後には、開通第1号の記念電車の先頭に乗って、下田に乗りこむつもりである。
そして下田かいわいのお爺さん、お姿さん達の盛大な歓迎会に望む事を今、最大の念願とし、楽しみとしているのである」と・・・
そして、免許出願後の記者会見で、
「この鉄道敷設は、私が企画した快心の仕事であり、終生の事業として伊豆の人々の為に尽くしたい。
他の事業を犠牲にしても必ず完成させる」と・・・
しかし、これに「待った」をかけた人物がいた。
他でもない。
康次郎その人であった。
この記事は2015-01-06
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