前回からの続きです。


 北千住駅から乗車した東武鉄道特急「りょうもう」は「りょうもう」用200系の後期タイプ。

 この200系は日光線系統の行楽特急列車に使用される100系「スペーシア」とは異なり、ビジネス特急としての用途という性格が強いためか100系に比べると車内のグレードは劣ります。

「スペーシア」がJRの特急型車両のグリーン車に匹敵するほどのグレードでセミコンパートメント車両も備えているのに対して「質実剛健」といった感じです。


 しかし、この「りょうもう」用200系も経年による更新が行われており、初期車からシートの取り替えなどが行われています。

 今回乗車したのは後期タイプの第7編成でまだ更新が行われておらず、シートはオリジナルの背もたれが少し小さめのものでした。


 更新されたシートは東武鉄道の特急型車両としては最新形式である500系「リバティ」に準じたタイプの背面テーブルが装備されていますが、オリジナルタイプのこのシートには背面テーブルは装備されていません。背もたれもやや小さめで、とくにヘッドレストの形状も絞られて、まるで国鉄時代の特急型車両の普通車オリジナルタイプのR51型簡易リクライニングシート並みのグレードです。さすがかつて「ミニ国鉄」などと揶揄されていた東武鉄道…というのは言い過ぎ?
 しかし、簡易なものとはいえ土足での使用のみですが跳ね上げ式フットレストも備えています。更新タイプのシートには装備されていません。ちなみに100系「スペーシア」のフットレストは国鉄特急型車両のグリーン車同様に土足/非土足タイプのフットレストが備えられています。

 座席に着席してすぐにリクライニングを倒した私を見た母ちゃん…即座に真似をしてリクライニングを倒してご満悦の様子でした。
 そして私の真似をしてフットレストに足を乗せた母ちゃん…たいそう小柄なので足回りも余裕の広さです。彼女にとってはこのシートピッチでも私が新幹線のグリーン車に乗ったときのシートピッチに匹敵するほどの広さなのでしょう。窮屈そうにフットレストを使用している私と見比べてみてください。


 東武鉄道伊勢崎線系統の特急「りょうもう」の停車駅は浅草を出るととうきょうスカイツリー・曳舟(一部)・北千住・東武動物公園・久喜・加須(一部)・羽生(一部)・館林・足利市・太田・藪塚・新桐生・相老で終点の赤城となります。朝晩には館林から佐野線の葛生発着、太田からそのまま伊勢崎線の伊勢崎発着がそれぞれ1本設定されています。
 対して日光線系統の特急「きぬ」「けごん」「リバティ会津」は東武動物公園は通過する代わりに春日部に停車します。

 この「りょうもう」は30分~60分ヘッドで運転されており(一部は太田までの区間運転)、平日は前述の通りビジネス特急としての性格が強く、館林や足利市と下車する人も多く、太田駅で大半の乗客が下車します。

 伊勢崎線は埼玉県の羽生駅を過ぎると利根川を渡って群馬県に入りますが、足利市駅など一部の駅は栃木県に位置します。
 渡良瀬川が群馬県と栃木県の県境となっているのですが、ごく一部ながら栃木県足利市が渡良瀬川の対岸の群馬県側に入っており、東武鉄道の足利市駅はその対岸部に位置しています。JR東日本両毛線の足利駅は反対側で、足利市街もJRの足利駅側に展開しています。
 群馬県太田市は北関東屈指の工業都市。
 富士重工業(SUBARU)のお膝元であり、多くの乗客がこの駅で下車します。「りょうもう」も太田駅を出ると車内は閑散とし、藪塚や新桐生でも残っていた乗客のほとんどが下車します。相老駅で下車するのはほとんどがわたらせ渓谷鐵道を訪れる人、終点の赤城駅まで利用する人はわずかです。

 太田駅の駅名標には「株式会社(SUBARU)前」と書かれているほどです。市内ではスバル360がうようよ走り回っています…というのはウソです。

 むかしむかし…源氏の嫡流である八幡太郎・源義家の二男・義国が分家して下野国(栃木県)の足利荘を領地としました。義国の長男・義重が渡良瀬川を隔てた上野国(群馬県)新田荘を領地として新田姓を名乗って新田氏の祖となり、二男・義康が足利氏の祖となります。
 現在の群馬県太田市は昔の新田荘、栃木県足利市は昔の足利荘であり、新田氏と足利氏は同族ながら反目しあっていたなどと伝えられています。
 鎌倉時代末期に力を合わせて鎌倉幕府を倒した義貞と尊氏でしたが、その後南北朝時代に南朝方に付いた義貞と北朝方に付いた尊氏は激突、勝利した北朝方の尊氏が室町幕府を置いて征夷大将軍となりました。

 戦国時代を経て室町幕府が終焉を告げると、羽柴秀吉が天下を統一します。
 彼は「征夷大将軍」の地位を望みましたが、「征夷大将軍は源氏の頭梁が任命されるもの」として許されず、やむなく貴族の藤原氏に強引に婿入りするかたちで貴族の最高位である関白になって豊臣姓を名乗ったと伝えられています。
 秀吉死後天下を取った徳川家康は新田氏の分家である得川氏の一族だとして征夷大将軍となり江戸幕府を開きますが、彼はもともと松平氏…戦国時代にはさまざまな豪族が皇族の分かれだとか源氏や平氏の末裔だとかいって「箔」を付けていたからさすがに家康あたりになると眉唾モノといった感もあります。
 ただし、都である京都を中心として現在の愛知県の尾張や三河は源氏の分家が多く土着しており、新田氏や足利氏から枝分かれした豪族の領地も点在していて、そのひとつに「得川」もいたのであながち嘘とは断定できませんが…。

 新桐生駅を過ぎると、この3号車は私たち夫婦だけになってしまいました。

 両毛線を跨ぎます。両毛線の桐生駅を起点とするわたらせ渓谷鐵道はこの画像の奥で両毛線から分岐して左方向へ進んで相老駅の手前で東武鉄道と並行します。両毛線の引き込み線に止まっている小さな作業車両はJRのE233系風の顔をしています。さすが「鉄道のまち」高崎を拠点とするJR東日本・高崎支社といった感じです!

 終点の赤城駅にて。私たち夫婦以外に下車した乗客は数えるほどでした。

 久しぶりに訪れた赤城駅。管理するのはこの駅を通って中央前橋駅と西桐生駅を結ぶ上毛電気鉄道です。市町村合併になる前は大間々町だったせいか赤城駅の上には「おおまま」と書かれています。
 余談ながらかつての大間々町は「おおまままち」と読み、6文字中5文字が「お」と「ま」で占めているという町でした。
 赤城駅から駅前ロータリーに沿って右へ進んで左へカープする道を進むと一本道でわたらせ渓谷鐵道の大間々駅に行けます。わずか15分ほどです。
 大間々駅の手前を右折してわたらせ渓谷鐵道の踏切を渡って高津戸峡へと向かいました。
 踏切から眺める大間々駅。
 大間々駅はわたらせ渓谷鐵道の中枢。本社や車両基地があります。

 わたらせ渓谷鐵道は足尾鉱山で採掘された鉱石を運搬するために建設された足尾鉄道がルーツ。
 のちに鉱山で従事する作業員や家族などを運ぶ旅客輸送も始めて国有化されて国鉄足尾線として国鉄分割民営化を迎えます。
 足尾鉱山はわが国初の「公害」としてみなさんも小学校の社会科の授業で習ったと思いますが、いわゆる「足尾鉱毒事件」の舞台となったところ。
 最盛期には多くの作業員や家族で賑わったこの沿線も鉱山が閉山されると寂しくなり、足尾線も国鉄時代末期には廃止路線としての指定を受けます。
 そしてJR東日本となってから一旦廃止されたものの第三セクター・わたらせ渓谷鐵道として甦って現在に至ります。

 私も微力ながら懸命に頑張る元国鉄の第三セクター鉄道を応援したくて時々この鉄道に乗って沿線の渓谷を車窓から楽しむだけのために訪れるます。
 しかし、今回は高津戸峡が目的だったので赤城駅から歩いて大間々を訪れました。
 次回は前記事から触れていた高津戸峡へと進みます。


 

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