信州・松代…もう何年も訪れていないけれど、私の中では好きな町のひとつです。
現在では長野市に含まれている松代町(まつしろまち)は越後の上杉謙信と甲斐の武田信玄が五回にわたって戦を交えた「川中島の戦い」において武田方の前線基地として築かれた海津城がルーツとされています。
真田昌幸の嫡男であり、真田幸村(本名は信繁)の兄である真田信之が江戸時代になって徳川家康没後二代将軍・秀忠の命により父が築いた上田城からここに移って明治維新まで続く松代藩の歴史が始まります。
今回アップする画像はいまから6年前の初秋に訪れたときのものです。
もちろんまだ紅葉は始まっていない時期ではありましたが、夕暮れを目前にした太陽の光は北信濃の早い秋の訪れを感じさせるものでありました。
真田氏といえば昨今の若い「歴女」の方々に限らず多くの歴史ファンには真田幸村が人気の武将でありますが、彼を一躍有名にしたのは豊臣家滅亡となる「大坂冬の陣」と「大坂夏の陣」であり、関ヶ原の戦い以前ではむしろ父・昌幸と兄・信幸(→信之)の陰に隠れた存在でした。
自分に逆らった昌幸に激怒した徳川家康は大軍を上田に差し向けて真田昌幸を叩き潰そうとしましたが、圧倒的に兵力に劣る真田方から逆に屈辱的な大敗を被るのですが、この戦いで昌幸に一目を置いた豊臣秀吉の裁定により昌幸は家康と和睦、家康は重臣・本田忠勝の娘の小松姫を養女として自分の娘の格を与えたうえで信幸に嫁がせます。
家康は敵対していた真田の嫡男とはいえ、信幸の人物は大きく買っていたようで、関ヶ原の戦いで再び自分に敵対した昌幸の領地であった上田を大坂の陣の後に信之(←信之)に返却しています。
信之が関ヶ原の戦いのときに父や弟とは別に家康方についたのは妻・小松殿の存在も大きかったのでしょうが、関ヶ原以降の信之が難しい立場を切り抜けられたのは家康の信頼が大きかったこともあるのかもしれません。
長野電鉄は私が少年の頃は富山県の富山地方鉄道と同様に地方私鉄の中ではかなり頑張っている鉄道会社でしたが、屋代~須坂間と信州中野~木島間が廃止されて久しく、現在は長野~須坂~信州中野~湯田中か間の長野線のみが残っています。
それでも元JR東日本で成田エクスプレスとして活躍していた253系や小田急電鉄でロマンスカーとして活躍していた車両が特急運用に入り、東京メトロ日比谷線の03系も譲渡されてやってきているので、東京近郊で活躍していた車両たちの第二の活躍舞台となっています。
今度は久しぶりに紅葉が美しい頃に松代や小布施を訪れてみたいものです。