「燕」静岡停車と西園寺公望 | 書斎の汽車・電車

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 懲りずに(?)超特急「燕」の話を続けます。

 昭和7(1932)年3月15日から、「燕」の停車駅に静岡が加わりました。それまでは、横浜を出ると、補機連結のため国府津に30秒停車するほかは、名古屋までノンストップでした。

 「燕」の途中停車駅は、横浜、国府津、名古屋、京都、大阪、三ノ宮となっており、東京~神戸を9時間という、当時としては大変な高速で運転するために、必要最小限に絞っていたのです。

 

 それではどうして、静岡を停車駅に加えたのか?(これにより所要時間は変わっていませんが、その分他の区間で無理を重ねたと思われます)当時囁かれていたのが、「政治的必要性」でした。

 といっても、静岡県選出代議士が鉄道省に圧力をかけたといったセコい理由ではありません。当時、静岡県の興津に元老・西園寺公望が住んでいました。政界の要人がこの西園寺の下を訪れやすくするために、「燕」を静岡に停車させるようにしたというのです。確かに、東京駅を午前中に出る優等列車そのものが実はあまり多くなく、東京9時発の「燕」が静岡に停まれば、「興津詣で」(西園寺邸訪問を当時こんな風に言いました)には好都合です。

 

 ところで、「元老」というのは、今日の私たちには馴染みがない言葉です。議院内閣制が確立していなかった明治憲法体制下において、内閣が倒れた際に、後継の首相を決定していたのが元老でした。明治期の有力政治家(主に首相経験者)が任じられ、大正期には元老による後継首相決定が確立しました。ただ、高齢だった元老たちは相次いで亡くなり、昭和初期には西園寺公望ただ一人となっていました。西園寺自身も日頃から情報収集に努めましたし、政界の要人たちも、「興津詣で」を欠かさず、「顔つなぎ」を図ったのです。西園寺は昭和15(1940)年、91歳で亡くなりますが、昭和12(1937)年まで首相決定に関わっていました。

 西園寺が亡くなったことで、「元老」はいなくなりますが、元々憲法等に明記された制度ではなく、慣例として首相決定に関わるというはなはだ曖昧なシステムでした。

 

 しかし、「燕」の静岡停車には、政治的必要性以外の理由もあったのではないかと思われます。先に私は、「燕」が東京~神戸9時間運転のため、停車駅を絞ったと書きましたが、このほかにも様々な「無理」を重ねています。

 まずは機関車交換です。蒸気機関車が主力だった当時、全区間同じ機関車ということはあり得ません。まして東京~国府津はすでに電化され、電気機関車が使用されています。しかし「燕」は、東京駅から蒸機(C51)牽引でスタートします。丹那トンネル開通前ですので、国府津からは急勾配の現・御殿場線を行きます。国府津で連結される補機も、通常ならD50のところ、C53が使用され、これも御殿場駅付近を走行中に解放されました。東京からのC51は、名古屋までのロングランとなったのでした。

 ロングランと書きましたが、蒸機のことですから途中での給水は必要です。しかし30秒停車の国府津ではそれもできず、静岡県内の原~鈴川で線路の間に給水溝を設けて、走行中に炭水車に給水するという案(イギリスでは実際に行われていました)もありましたが、狭軌では難しいことがわかりました。そこで、炭水車とは別に「水槽車」を連結して、給水問題を解決しました。

 この「水槽車」を「ミキ20形」とする文献もありますが、この形式称号は「水槽車」が「燕」の任を解かれて、事業用貨車となった後のものです。「燕」当時はあくまで、炭水車と同じく機関車の一部として扱われ、「C51248」といったナンバープレートも付いていました。

 もう一つ、乗務員の交代という問題もありました。下り「燕」においては、機関士と機関助士は沼津駅通過後に車上で交代するという無茶をしていました。(上りは沼津で補機を連結する際に交代)交代要員は1輛目(スハニ)の最前列に席を占め、交代時間になると、荷物室を抜け、「水槽車」側面のランボードを通り、炭水車(こちらは改造されて通路が設けられていたようです)経由で運転台に到着。これまで運転していた乗務員は逆のルートでスハニに向かうというもので、高速走行中に交代するわけですから、万一転落したら命に関わります。

 この、給水と乗務員交代という問題が、静岡駅に停車することで解消されたのでした。下り「燕」は静岡着11時55分、4分停車でしたが、この間に給水を済ませ、乗務員も交代出来ました。

 実はこの静岡停車は、3等車の乗客にも恩恵がありました。まず、「水槽車」を連結しなくなったことで3等車が1輛増結されました。また、当時の3等旅客にとって、食堂車は縁遠い存在でした。1等車から順番に予約を取ることから、食堂車利用は難しかったのです。そこで駅弁購入となりますが、横浜で買わないと名古屋まで買えませんでした。(のちに車内で希望を取り、国府津で駅弁を積み込んだそうです)それが、静岡で(しかも昼食時間帯に)駅弁が買えるようになったわけです。

 

 このように、「燕」静岡停車の背景には、西園寺公望の存在以外に、給水と乗務員交代といった問題があったのです。さらに、昭和9(1934)年12月の丹那トンネル開通後は、東京~沼津は電気機関車牽引となり、沼津以西はC53という、戦前の束の間の鉄道黄金期を迎えるのでした。