前回お伝えしたように、甲子園の滞在時間は5分少々でして、すぐに新大阪に向かいました。次のミッションが最後の場所になります。

 

 

説明しなくてもお判りのように、大阪メトロ、当時は大阪市営地下鉄御堂筋線の新大阪駅です。

1970年2月24日に撮影したということで、ちょうど半世紀前になります。

ヘッドマークからも判るように、この日、御堂筋線の新大阪-江坂間と、北大阪急行電鉄の江坂-千里中央間と万博会場となる、千里中央-万国博中央口間が開業しました。

御堂筋線が新大阪駅まで到達したのは、東海道新幹線が開業した1964年ですが、新幹線に先駆けて9月24日に梅田-新大阪間を延伸開通させました。折り返し施設はその時の名残りなのでしょう。

 

 

それから50年後の同地点です。

すごい変わり様ですよね。

何とか、日没寸前で撮ることが出来ましたが、東京だったらアウトという時間でした。

 

御堂筋線の終点は今も昔も江坂ですが、江坂止まりは皆無に等しく (無いわけではないらしい) 、そのまま北急の千里中央まで乗り入れます。また、北急も同様で、江坂からそのまま御堂筋線に入ります。このため、北急と御堂筋線は一心同体的なオペレーションとなっており、何故、大阪市が千里への延伸と万博輸送を拒んだのかが今もって謎とされています。

大阪市としては、万博開幕時は良いけど、閉幕後のことを見据えて二の足を踏んでいたものと推測します。

千里丘陵は今でこそ、京阪神最大級のベッドタウンとして名を馳せていますが、当時は一部を除いて一面竹林の鬱蒼としたエリアで、 「ここの開発は不可能やろ」 と言われるほど。そこに鉄道を敷いても意味は無いと大阪市は判断したのでしょうか。

それと、 “縄張り外” というのも大阪市が二の足を踏んだ要因の一つだったかもしれません。

江坂、緑地公園、桃山台は殆ど豊中市なんだけど吹田市、千里中央は吹田市っぽいんだけど豊中市・・と、大阪市から離れるので、そことの兼ね合いを大阪市は危惧したのかなと思います。それで 「百歩譲って江坂までなら・・」 と延伸を渋々決めたのかな?

その時から民営化されていたら、そういう問題も起こらなかったかもしれませんが、今から考えたら、大阪市交通局は勿体ないことをしたと思っているでしょうね。

 

北大阪急行電鉄は今も黒字経営が続いており、初乗り料金が80円という低価格がウリなわけですが、あのまま大阪市が万博輸送も担い、江坂-千里中央間も大阪市主導で建設されていたら、どうなっていたでしょうね。

 

これで8ヶ所の今昔対比は全て終わり、1ヶ所だけ除いて何とかコンプリート出来ましたけど、やっぱり詰め込みすぎたかなと思いました。

もしまた、 「日帰り関西旅行」 をやるとしたら、もうちょっと余裕を持ったスケジュールにしたいですね。

 

【 「Then」 の画像提供】

ウ様