常磐高速バス盛衰記(1)~昭和62年東京-つくば「つくば」号登場~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

このような列に並ばなければ、乗れないのか──

 

国鉄の分割民営化後に初めて開業する高速バス路線として、昭和62年4月にJR東日本バスと関東鉄道バスが東京-つくばセンター間に新設した「つくば」号に乗りたくて、東京駅八重洲南口の高速バス乗り場にやって来た僕は、目の前の光景に思わず溜め息をついた。

 

 

 

 

当時の東京駅八重洲南口バスターミナルは、1番・2番乗り場が静岡・名古屋方面の「東名ハイウェイバス」、3番乗り場が「つくば」号に充てられていたが、3番乗り場を先頭とするバス待ちの長蛇の列は、バスターミナルの敷地からはみ出して、東京駅の南側に位置する八重洲ブックセンター前の横断歩道まで伸びている。

高曇りで、時々顔を出す青空と陽の光が眩しい初夏の週末の午後だった。

列の中にも、半袖の軽装の女性と背広の男性が混じっているけれど、晴れ間が覗くと上着を脱いで汗を拭う人も見受けられる。

 

2年前に、静岡発東京行きの「東名ハイウェイバス」を利用して、高速バスの旅の新鮮さと躍動感、そして手軽さに魅入られた僕は、それからも、気晴らしのためにふらりと高速バスに乗りに出掛けていた。

「東名ハイウェイバス」をはじめ、新宿と富士五湖、甲府を結ぶ「中央高速バス」や、新宿と御殿場、箱根を結ぶ「箱根高速バス」など、東京を発着する比較的近距離の路線が主体であったが、事前の予約が必要な「中央高速バス」と「箱根高速バス」は何となく敷居が高く感じられて、座席指定のため好きな席に座れないという制約があったので、定員制で自由席の「東名ハイウェイバス」を選ぶことが多かった。

 

 

 

 

「つくば」号が登場した時には、快哉を叫びたくなった。

常磐自動車道を走る高速バスも初めてであったし、定員制であることから、早く並びさえすれば、大好きな最前列の席を占めることが可能だと思ったのである。

大抵の乗客にとって、高速バスとは、所用がある目的地まで運んで貰いさえすれば良い、という気持ちで乗っているのだろうが、僕は目的地に何の用事もない。

高速バスでドライブを楽しみたいだけなので、存分に車窓が楽しめるか否かという問題は、かなりの比率を占める。

 

 

 

 

ところが、勇んで足を運んだ東京駅八重洲南口は、そのような贅沢が許される状況ではなかった。

 

単に混雑しているだけならば、便を1本遅らせて、次のバスの発車まで乗り場で待っていれば良い。

ところが、「つくば」号の混み具合は、好きな席を選ぶどころか、バスに乗れるのかと懸念が生じる程の凄まじさを呈していた。

このような事態を好ましく感じる人がいるはずもなく、並んでいる客は、誰もが不機嫌そうな表情に見受けられる。

列の先頭まで進んだ時に、次のバスにしますから、と脇にずれて、後ろの乗客に順番を譲ろうものなら、秩序を乱す不届き者、と白い目で見られかねない。

 

 

 

 

昭和62年4月1日に運行を開始した時点の「つくば」号は、1日16往復が設定されていた。

僕がのこのこと乗りに来たのはこの時期であるが、同年9月には1日30往復に増便され、昭和63年に1日60往復、平成5年に1日66往復、平成10年に下り平日84本・休日80本・上り1日80本、そして平成11年には下り平日87本・休日83本、上り平日86本・休日84本と、凄まじい勢いで増便が繰り返されたのである。

 

平成14年からは、定員84人という我が国の道路では規格外の大型ダブルデッカー、西独ネオプラン製の「メガライナー」が4台輸入されて、輸送力の強化が図られている。

 

 

 

 

平成17年に第3セクターで建設された常磐新線、いわゆる首都圏新都市鉄道「つくばエクスプレス」が開通する前は、東京と筑波研究学園都市を直通する公共交通機関が「つくば」号だけであり、筑波大学や研究機関を訪れる学者、技術者、ビジネスマン、学生、そして一般の住民など、多種多様な人々が初めての直通輸送機関となった高速バスに集中したのである。

学会や筑波大学入学試験などが行われる日には、東京駅で、バス4~5台分に相当する150~200人もの待ち客が乗り場に詰め掛けたこともあったと聞く。

 

上り便も同様の混雑で、竹園二丁目、並木大橋などつくば側の途中停留所では、始発地のつくばセンターで満席になって乗れない便が続発し、運輸省から見込みの甘さを叱責されたと聞く。

官僚の利用も少なくない路線であろうから、JRバスと関東鉄道は肝を冷やしたに違いない。

 

 

間もなく「東京駅⇄つくばセンター」との表示を掲げたハイデッカーが乗り場に横づけされたが、1台で捌ける人数とはとても思えない。

程なく2台目のバスが姿を現して、黙々と残っている人々を収容し始めたものの、それでも乗り切れるのか不安が残る。

 

『「つくば」号を御利用のお客様にお知らせ致します。10分後に臨時便が参りますので、1号車、2号車に乗れないお客様はそちらを御利用下さい』

 

スピーカーから割れんばかりの案内放送が流れて、人々の表情が少しだけ和らいだような気がした。

利用者の立場としては、当たり前だ、と思っても、バス会社とすれば、バス1台と運転手を臨時で手配するのは決して生易しいことではなかったはずである。

江東区塩浜にあるJRバスの車庫から東京駅まで、回送で20分程度を要するから、案内の時点で、臨時便が車庫を出発したという連絡が入ったのであろう。

 

 

 

 

僕自身も、10分後に現れた臨時便に目出度く乗車することが出来た。

運良く窓際の席に座れたので、さあ、初めての常磐道の旅を満喫するぞ、と嬉しくなったけれども、ほぼ満席の車内の空気は、そのようなことを考えるのが恥ずかしくなるほど張りつめている。

大半がネクタイと背広姿の男性で、鞄を開けて書類に目を通す人も少なくない。

まるで、学会や会議に出席しているような気分である。

 

加えて、バスに乗りたいだけの人間が、貴重な1席を占めていることが、何となく後ろめたい。

僕のせいで、国家にとっての重要人物がバスに乗れず、国運を左右するような研究や実験、会議がふいになるかも知れない。

そのような空想が飛躍的過ぎると笑い飛ばせないほど、首都と我が国随一の研究都市を結ぶ「つくば」号は、国の根幹を支える存在に思えたのだ。

思わず車内を見回して、2~3席の空席があることを確かめ、僕のせいで乗れなかった客はいないな、と胸を撫で下ろしたものだった。

 

 

 

 

東京駅を後にした「つくば」号は、「東名ハイウェイバス」と同様に八重洲通りを東へ進み、狭隘な曲線になっている宝町ランプを2車線を使って大きく転回し、掘割に造られた首都高速都心環状線内回りに駆け下って行く。

ここの流入路の下り勾配は、ジェットコースターのような急傾斜である。

 

東名高速に繋がっている首都高速3号線に向かうために都心環状線をそのまま進む「東名ハイウェイバス」の走りが滞った記憶はないのだが、すぐ先の江戸橋JCTで首都高速6号向島線に分岐する右車線は、ぎっしりと車がひしめいて、流れが悪くなっている。

分岐を過ぎた右への上りカーブで、車列はいったん止まってしまう。

首都高速中央環状王子線や山手トンネル、または外環自動車道千葉区間が完成していない時代であったから、「つくば」号のように常磐道へ向かう車ばかりではなく、1kmも満たない距離にある箱崎JCTで9号深川線、更に1km先の両国JCTで7号小松川線が分岐しているため、都心から湾岸や千葉方面、更には小菅JCTで合流する中央環状線とその先の川口線から東北自動車道へ向かう車が全て集中し、深夜・早朝を除いて四六時中渋滞が常態化している区間である。

 

ここを走るたびに、もう少し別の造り方がなかったものかと溜息をつきたくなるのだが、首都高速道路が設計された昭和30年代に、これほど車が増えるとは想像も出来なかったのであろう。

 

 

 

 

放射状に車が分散していく下り線はまだマシな方で、各方面からの車が江戸橋JCTに向けて集まって来る上り線の渋滞状況は、推して知るべしである。

対向車線には溢れんばかりの車の列が続き、進む速さも下り線に比して遥かに遅いようである。

上りの「つくば」号らしきバスの姿も見える。

お互いに速度が遅いので、車内まで手に取るようである。

運転手さんはピン、と背を伸ばしてまっすぐ前方を見つめていたが、すれ違い様に不意に大きく欠伸をした。

こちらと同じく書類に目でも通しているのか、俯いている乗客が多かったが、居眠りしている人もいたかもしれない。

こちらの下り便より遥かに気怠そうな上り便の様子に、無理もないと同情したくなる。

 

初めての「常磐高速バス」となった「つくば」号は、首都高速の渋滞の影響をもろに受け、上り便の所要時間は下り便よりも20~30分長く設定されている。

「つくば」号の利用者に向けて行われたアンケートでは、回答者のおよそ半数が、渋滞による遅延に不快感を表明したという。

盛況に見える「つくば」号も、下り便は100%に近い利用率でありながら、上り便は鉄道に利用者が流れて、50%を割り込む状態だったと言われている。

 

平成3年より、上り便は、首都高速6号向島線を向島ランプで降り、墨堤通り、東京都道463号上野月島線、江戸通り、浅草通り、昭和通り、外堀通り、永代通りを経て東京駅に向かう経路に変更され、平日と土曜日には、上野駅入谷口にも停車するようになった。

 

 

 

 

歩みは遅々としているが、それでも、6号向島線の高架から隅田川を挟んで眺める浅草などの下町の景観は新鮮で、左側の席に座っている僕の眼は窓外に釘づけだった。

渋滞には辟易するけれども、発車直後の車窓としては、延々と平板な住宅地が続く東名高速や中央道よりも、遥かに変化に富んでいる。

 

小菅JCTで中央環状線に乗り換え、続け様に堀切JCTで首都高速三郷線を常磐道へ向かい始める頃には、バスの速度も少しずつ上がってきた。

三郷JCTを過ぎて常磐道本線に入ると、いきなり片側3車線になり、路肩も広くなって、一気に解放された気分になる。

「つくば」号も、それまでの鬱憤を晴らすように飛ばし始める。

 

 

 

 

三郷本線料金所の手前にある延長246mの三郷トンネルをはじめ、次の流山ICと柏ICの間には4本のトンネルが穿たれているが、山や丘陵ではなく、いずれも市街地の地下である。

下り勾配の先にある幅の広いトンネルの入口には、瀟洒な住宅が並んでいる。

 

三郷トンネルは、住宅地だけでなく、JR武蔵野線と新三郷駅、そして昭和49年に我が国最大の操車場として建設された武蔵野操車場を避けるために掘削された。

全長5.2km、幅350m、敷地面積105万平方メートルという武蔵野操車場は、自動化が進められた最新式の貨物操車場であったが、直後に国鉄の経営難の影響による鉄道貨物輸送のトラックへの移行と、ヤード集結型貨物輸送の廃止という事態に見舞われて、開業わずか10年後の昭和59年に操業を終了し、この旅の前年の昭和61年に廃止されてしまった。

 

首都高速4号線から中央道へ移行する高井戸JCTのすぐ先にも、騒音防止目的の烏山トンネルが被さっているけれども、高速道路に入ってすぐにトンネルが連続するとは、東京から放射状に伸びる他の高速道路には見られない特徴で、常磐道の旅もなかなか愉快じゃないかと思う。

 

そこからは、時折低い丘陵が視界を遮ることはあっても、ひたすら平坦な坂東平野が続く。

流山、柏、守谷、谷和原、谷田部と窓外を過ぎ去るインターやサービスエリアの地名を耳にした覚えはあるけれども、柏以外は並行するJR常磐線の駅名ではなく、微妙にずれた地域を走っているのだな、と思う。

三郷JCTから「つくば」号が常磐道から離れる谷田部ICまでは30.3km、20分程度の高速走行であった。

銀杏並木が続く碁盤目の一般道を進み、途中停留所でぽつぽつと人が降りていけば、東京駅から66.3km、所要1時間のバス旅はあっけなく終わりを告げた。

 

 

 

 

広大なバスターミナルとなっているつくばセンターは、外周部と中央の島状のスペースにバス乗降場が散らばり、脇にはつくばターミナルビルとタクシープールがある。

バス乗降場を跨ぐ陸橋とペデストリアンデッキがターミナルビルと繋がっているが、JRみどりの窓口や旅行代理店、コンビエンスストア、喫茶店、ATMなどが並ぶ建物は2階建てに過ぎず、他に高い建物も見えず、どこか殺風景な空間だった。

10分前にはバス2台分、そして臨時便の車内にひしめいていた合計100人は下らないはずの乗客も、この空虚な空間では、海に垂らしたスポイトの液体のように拡散してしまったようで、およそ人間味が感じられない。

 

 

 

 

この土地は、元々農業地帯であったが、昭和40年代から筑波研究学園都市として開発が進み、昭和62年に谷田部町・大穂町・豊里町・桜村が合併して、つくば市が誕生した。

平仮名の地名は僕の好みではないけれども、決まってしまったものは仕方がない。

筑波市と漢字表記にすると、筑の字を、ちく、と読み間違えられる可能性があるという議論が交わされたと聞いているから、何をか言わんやである。

市名はともかく、国や大手企業の研究施設が多数誘致され、約300に及ぶ研究機関と企業、2万人を越す研究者を擁する我が国最大の研究都市として君臨し、一時期話題になった首都移転の候補地にも挙げられたと記憶している。

 

一方で、昭和60年前後に筑波病と呼ばれる自殺が問題となり、同市の自殺率は日本人ないし国家公務員の平均値の2倍を超えたとする報告もある。

特に、昭和60年から同61年にかけての僅か1ヶ月間で、同じ研究施設から3名の自殺者が出たこともあって、マスコミが大々的に取り上げるようになった。

筑波大学に進学した友人に、それとなくこの話をしたところ、一笑に付された記憶があるけれど、それほど有名になった事象なのである。

当初は、筑波への転居に起因する寂しさが原因の1つとして挙げられ、都市化により解消すると考えられていたが、都市化が進行しても自殺者が減少せず、むしろ増加傾向を示したという。

公害対策、環境保全など快適な環境の構築を目指して建設された計画都市であり、建物が一様に遮音性が高い構造であったことから、音が全くない空間を情報欠乏状態として鬱病などが惹起されたという説、合理的な都市計画によって形成された人工都市であるため娯楽施設に乏しく、人々の生活が自宅と職場の往復に限定されて単調であること、住民同士の交流が希薄であることを原因とする説、もしくは石油危機と高度経済成長期の終焉による研究環境の悪化を指摘する説などが挙げられている。

 

つくばセンターを実際に訪れてみると、言葉では具体的に説明できないけれども、幾何学的な街並みや、塵1つ落ちていない清潔な並木通り、そして、ふらりと足を踏み入れてみたショッピングセンターの、豊富な陳列商品とは対照的に閑散としている店内に、どこか人間不在の乾いた雰囲気を感じたのも事実である。

幸いなことに、平成になって自殺者数は減少し、その背景として、深夜まで営業する飲食店の増加などとともに、「つくば」号の開業による東京への利便性の改善を挙げた医学者もいるという。

 

 

 

 

短かったけれども充実していたバス旅の余韻に浸りながら、僕は、JR土浦駅行きの路線バスに乗り込んだ。

 

「つくば」号上り便の混雑と渋滞による遅延に怖れをなした訳ではない。

東京に出て来たばかりの頃、鉄道ファンだった僕は、常磐線の中距離電車に目的もなく乗り込み、そのスピード感に酔い痴れた経験がある。

東京の鉄道とは、普通列車でもこれほど高速で走行するものなのか、と驚嘆した。

同じ高速バスで引き返すのも月並みに思えたので、それならば、もう1度、常磐線の疾走ぶりを味わいたくなったのである。

 

 

 

 

 

 

その期待は裏切られず、楽しい帰路になったので、僕は、「つくば」号と土浦行き路線バス、そして常磐線上り列車を組み合わせた回遊コースを、しばしば気晴らしに利用するようになった。

便数が増えると、「つくば」号を利用する際の儀式とも言うべき乗車前の行列も、気にならない程度に短くなったが、最前列の席に座れたことはなかった。

 

その後、常磐道を経由する高速バス路線が増え、これからこのブログで、それらの「常磐高速バス」の乗車記を幾つか語らせていただきたいのだが、それに比例して、僕が「つくば」号に乗る機会は減っていった。

高速バスファンとしてあるまじき行為であるが、社会人になって自家用車を購入してからは、筑波は車で行く土地になっていたことも大きな理由だった。

 

最後に「つくば」号に乗車したのは、平成17年のことである。

その時に初めて上り便を利用し、加えて「つくば」号の混雑に対応すべく導入された「メガライナー」も初体験することが出来たので、印象深い旅になった(「下妻・筑波 晩秋の小さな旅~下妻行き高速バスと東京-筑波間つくば号・メガライナーの思い出~」)。

しかも、念願の最前列席で、紅葉に彩られた車窓を存分に楽しめたのである。

 

 

 

 

しかし、「つくばエクスプレス」の開通に伴う利用者数の極度の減少により、「つくば」号は平成20年以降は1日40往復程度まで減便され、僕が乗車した「メガライナー」も空席が目立った。

だからこそ、先頭の席を占めることが可能だった訳で、一抹の寂しさも込み上げてきた。

東京と常磐道沿線の街を結ぶ高速バスの中では、「つくばエクスプレス」開業の影響で廃止された路線も少なくない。

 

そのような逆風にもめげず、「つくば」号では、平成20年に上り便が都営浅草駅にも停車するようになり、平成29年には、首都高速6号線の八潮PAで下車して最寄りの八潮中央駅で「つくばエクスプレス」に乗り換える割引切符を発売するなど、様々な渋滞対策が講じられている。

「つくばエクスプレス」では終点のつくばセンターで路線バスへの乗り換えが必要となる筑波大学病院、大学会館、筑波大学まで運行区間を延伸し、鉄道では実施できない午前4時台の早朝便や、午前0時以降に発車する深夜便を設定して好評を得ている。

 

「常磐高速バス」の嚆矢となった「つくば」号は、現在も、懸命に走り続けているのだ。

 

 

 

 

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