EF59 / 広島車両所公開中止によせて | 安芸もみじ ─ Photographs, Historys, Railways,-JAPAN┃広島
2020年11月06日(金) 22時23分00秒

EF59 / 広島車両所公開中止によせて

テーマ:国鉄機 or 客車列車
⭐⭐⭐ 郷土史 日本史 私撰集 ⭐⭐⭐
🍁 鉄道から見る郷土史シリーズ 🍁

例年なら今頃は、JR貨物フェスティバル 広島車両所公開の記事をUPしています。

広島車両所公開とは、1992(平成4)年から毎年1回催されている鉄道フェスティバルですが、今年はコロナウィルスの影響を受けて、中止となってしまいました。

これを機に、広島機関区と広島車両所の歴史を、簡単に振り返ってみます。


1894(明治27)年6月10日、山陽鉄道が広島開業に伴って、広島機関庫を創設しました。

山陽本線は1901(明治34)年に下関まで開通し、1906(明治39)年の民鉄国有化に伴い、鉄道省へ広島機関庫として継承されます。

1936(昭和11)年、広島機関庫は広島機関区へ改称され、1941(昭和16)年の真珠湾攻撃以降に戦火が拡大すると、山陽本線は膨大な量の兵員や軍儒物資の輸送を担うこととなりました。


1943(昭和18)年3月23日、車両修繕の円滑化を図るため、機関車修理工場として鉄道省広島鉄道管理局広島工機部が開所し、同年11月に省庁改変に伴って誕生した運輸通信省に引き継がれます。

1944(昭和19)年には広島機関区を、広島第一機関区と広島第二機関区に分割され、当初の予定では山陽鉄道時代に建設された第一区を貨物用、第二区を旅客用とする構想でした。

しかし急速な戦況悪化によって思う通りの列車運用が叶わず、中途半端なまま1945(昭和20)年に終戦を迎えます。


終戦直前の8月6日、アメリカ軍による核攻撃によって被爆し、広島工機部は爆心地から4.3kmに位置した故、建物の窓ガラスは粉々に砕けて全損したり、機関車修理場もスレート屋根が大破し一部建物が傾きましたが、建物の倒壊は免れました。

当日、臨時救護所として市内から避難してきた被爆者を収容して職員が救護にあたりつつ、まだ連合国とは交戦中の戦時下にあったため翌7日には業務を再開し、被災が軽微な蒸気機関車から整備を行ない始めました。

1949(昭和24)年に日本国有鉄道が発足すると全設備が移管され、1962(昭和37)年、第一区を広島機関区に、第二区を広島客貨車区と統合して、広島運転所に組織変更となります。


1955(昭和30)年、広島工機部は広島工場に改称し、1960(昭和35)年2月にディーゼル機関車の検修を開始。

1962(昭和37)年4月に気動車=ディーゼルカー、5月には電車の検修を開始し、10月から電気機関車の検修を開始、1964(昭和39)年10月より貨車の検修を開始しました。

1973(昭和48)年9月、D51-214号機を以て広島工場での蒸気機関車の検修を終了し、1984(昭和59)年5月から客車の検修を開始します。


1985(昭和60)年3月、組織改正に伴い広島工場は、広島車両所に改称。

1987年(昭和62年)4月1日、国鉄分割民営化に伴い日本貨物鉄道=JR貨物に継承され、1991(平成3)年に、それまで継続されていた電車の検修(JR西日本所属電車検修の受託)を終了。

1996(平成8)年4月、広島機関区の検修部門を統合し、当機関区に所属する全車両が広島車両所に転属となり、広島機関区は乗務員の配置のみとなりました。


2000(平成12)年、鷹取工場閉鎖に伴い、梅田貨車区の業務を担当するようになり、現在に至ります。

平成30年西日本豪雨災害のあった2018年、多忙な上に人手も予算も足りない中、規模を縮小しながらも開催してくれた"第25回 JR貨物フェスティバル 広島車両所公開2018"でしたが。

さすがにウィルスによる世界的な感染症の流行の中、残念ではありますが開催するには職員と来場者の双方にとって、あまりにリスクが高いため中止となってしまいました。


第27回 JR貨物フェスティバル 広島車両所公開2020の中止については。

『例年10月に開催しているJR貨物フェスティバル広島車両所公開につきましては、新型コロナウイルス感染防止の観点から、今年度の開催は見送らせていたたきます。楽しみにされていた皆さまには誠に申し訳ありませんが、ご理解のほどお願い申し上げます。なお、来年度以降の開催については未定でず』

との案内がHPに掲載されていました。


さて、今日の記事は来年の開催が無事に行われることを祈ってのものなのですが、過去の写真から何を選り抜こうかと思案して。

広島車両所と言えばゼロロクことEF66の0番台やEF67ですし、いろいろなゲスト機関車を順番にとも思いましたが、ここは最も広島らしくと古豪の名機 EF59としました。

広島車両所の保存機は、静態保存の21号機とカットモデルの16号機の2機ですが、似たような写真は省いて選り抜いてみました。


2007年~2010年と2016年~2019年となっていますが、2006年から前は写真をデジタル化していないことと、2012年は記事化していないことから、今回ここにはありません。

こうして並べて見てみると、私が訪れた年は雨が多かったことが・・・・雨男じゃないんですけどねぇ(笑)

UP済みのEF59全写真の中で、1番お気に入りなのは2016年のミラーがど真ん中にいますが、これを活用してEF59-21号機・EF67-1号機・EF67-102号機を1枚に収めることができた写真です。


雨足が強くなって雨宿りしていて、偶然見つけた角度でしたが、こうなるとEF61の200番台が現存しないことが残念でなりません。

2009年には赤富士のヘッドマークを掲げた特急富士仕様を、交差法の3D写真でも撮っていたので、記事中盤辺りに貼っています。

さて、EF59という機関車ですが、瀬野~八本松間の22.6‰が連続する急勾配区間を、補機として峠を攻める"ヒルクライム機"として、1963(昭和38)年から1972(昭和47)年にかけて24機造られました。


とは言え、新製ではなく旧型機の改造によって誕生した形式で、EF55を除く旧型電機の伝統的なスタイルをしており、50番代形式の最終型番です。

EF59が誕生する以前は蒸気機関車のC59やD52が運用についており、京都鉄道博物館に保存されているC59-164号機には、連結器自動解放装置が現存しています。

EF59全24機の内、1号機~19号機は全機がEF53からの改造で、この改造によってEF53は廃形式となりました。


20号機から24号機はEF56からの増備として改造された車両でしたが、EF56は暖房用の蒸気発生装置=SGが搭載されていたことから車体の腐食が早く頭の痛い存在だったようです。

ヒルクライム機への改造ということて、ギアの歯車比が2.63から3.67へ変更され、他に重連総括制御装置の搭載や、連結器自動解放装置の搭載などが行われ、下関方の前面には黄黒色の警戒色がV字型に施されています。

種車となったEF53は1932(昭和7)年誕生の形式で、EF56は1937(昭和12)年の誕生でしたが、1986(昭和61)年10月12日の運行をもって全車が運用を離脱しました。

EF59-21

国鉄分割民営化の半年前まで現役機でしたが、国鉄はEF59-10号機を動体保存するために車籍抹消せず、JRグループが誕生するとJR西日本へ車籍を残したまま継承されました。

しかし2006(平成18)年にJR西日本は廃車・解体処分をしてしまい、EF59はこの時点で廃形式となりましたが、EF55-1号機と共に21世紀まで生き長らえた"戦前型電機機関車"となりました。

現在、車籍の無い静態保存機は4機が現存しており、写真にUPした広島車両所の16号機と21号機の他に、碓氷峠鉄道文化むらへ1号機が保存されています。


残りの1機も碓氷峠鉄道文化むらで保存されていますが、この車両は11号機だった機関車で、保存に際して種車のEF53-2号機へ復元されています。

尚、EF56は全機現存しませんが、EF59-21号機が唯一その姿を留めて存在しています。

ということで、次の写真からは京都鉄道博物館でのものに替わりますが、最初の2枚はEF51の1/10模型で、あとはEF52の写真となります。


大正時代に各国海軍の艦船保有量を制限する"ワシントン海軍軍縮条約"の締結に向けた国際会議が行われました。

会議の交渉でイギリス側の譲歩を引き出すために、政治的駆け引きで輸入されたのが、EF50という日本初の6軸F級機関車で。

それに対して性能面で学び研究し、将来の電気機関車国産の礎とするために、アメリカから輸入されたのがEF51という、同じ6軸F級機関車でした。



1925(大正14)年12月の東海道本線 東京~国府津間電化開業用にEF50が8機先行投入され、EF51は1926(大正15)年に2機が製造されました。

EF51をモデルに開発・設計され、国産初となったのがEF52です。

EF50に関しても、なぜ故障するのか?なぜ壊れるのか?の研究は、日本の工業力の向上へ繋り、機関車のみでなく強電・弱電の技術やモーター・エンジンなどの開発力へフィードバックされました。


アメリカの技術を基本にして新設計されたEF52は、1928(昭和3)年から1931(昭和6)年の間に9機が製造されました。

製造メーカーは日立製作所・芝浦製作所・汽車製造・三菱電機・川崎造船所・川崎車輛製造で、同一設計の重工業製品を多メーカーで同一性能で造ることで、国内工業力の底上げにも貢献。

外観デザインはアメリカンスタイルを日本風にテイストしており、サイドビューに関しては1960(昭和35)年登場の新性能機 EF60の初期型まで、踏破さる基本デザインとなりました。


京都鉄道博物館に静態保存されているEF52はその1号機です。

全9機の内、最後の2機となる8号機・9号機は、試験的に高速性能の向上を狙って歯車比を3.45から2.63へ小さくされており、その結果が良好だったことから1932(昭和7)年に、EF54に改称されました。

この国産初大型電機は戦後も長く活躍し、1975(昭和50)年の全機引退まで約47年間、日本の重工業の近代化黎明期から新幹線博多開業まで見届けて、今は京都の地で余生を送っています。


このEF52は前述の通り国産初ということから、技術的裏付けが無いために全てが試験的な要素が大きく、貨物列車や普通列車の牽引を前提に造られていましたが。

初期故障などの不具合をクリアして安定した運用が確認されると、このEF52をベースに高速旅客機として設計されたのが、EF59の種車となったEF53です。

戦前形の電気機関車の完成形として性能面では随一で、後のEF56やEF57などのベースとなりました。


製造メーカーは日立製作所・芝浦製作所/汽車製造・三菱造船/三菱電機・川崎造船所/川崎車輛・日本車輌製造。

東海道本線の電化区間において、1936(昭和11)年にEF55が登場するまで特急富士や特急さくら、特急つばめなどを牽引しました。

EF55が3機しか製造されなかったことから、特急仕業は控え役を継続しつつ、急行列車においては主役であり続けました。


EF53はその高い性能と信頼性を受け、13~19号機はお召し機に指定され、1954(昭和29)年にEF58-60号機・61号機が登場するまで役目を果たしました。

そんな高性能なEF53も、戦後の1946(昭和21)年にEF58が登場するとSGなどの装備面で劣るようになり、東海道の花形から退くこととなります。

主力機の座を離れたEF53は余剰機となり、高崎線などの地方線区や東京周辺の小運転用に使用される様になり、1955(昭和30)年頃には1~15号機が高崎第二機関区へ、16~19号機が東京機関区へと分断配属されていたようです。


しかし1963(昭和38)年に、山陽本線 瀬野~八本松間=通称:セノハチにおける補機を無煙化するため、1963(昭和38)年から1972(昭和47)年にかけてヒルクライマーの改造を受けて。

EF53はEF59となり、瀬野機関区へ再び全機が一同に集結し、これが好機となって戦前の特急旅客機が、保存車ではなく定期運用を持った機関車として、JR化直前の1986(昭和61)年10月まで現役として走り続けることとなります。

前述のEF59-10号機においては、実際に営業運転は行われませんでしたが、動体保存車として2006(平成18)年まで現役でした。


さて前出のEF54ですが、EF52のボディと台車を持ってギヤ比を変更したため、形式変更されて誕生しましたが。

当初はEF53とほぼ互角な性能だったため、共通運用も一部組まれていましたが、EF52でも無くEF53でも無く2機しか存在しなかったため、保守・修繕に手間と経費がかかっていたようで。

折しも貨物輸送の増大によって機関車が不足していたため、1944(昭和19)年に1号機、1945(昭和20)年に2号機が、浜松工場で貨物機への改造が行われ、EF14となりました。


しかし旅客機から貨物機への改造とは言え、歯車比の変更という戦時下においての簡易的な急造だったため、貨物列車を牽引するにはパワー不足でした。

EF14は中央本線で使用されていましたが、EF13が転入して来ると余剰機となり、晩年は1960(昭和35)年から大阪駅構内での入れ換え専用機として使用され、1974(昭和49)年に廃車となりました。

EF56は、EF53をベースにSGを追加搭載した、当時としては画期的な機関車で、川崎造船所/川崎重工業・川崎車両・三菱電機・日立製作所で12両が製造されました。


東海道本線で優等列車の牽引に充当され、6号機はお召し機として指定されて、EF53と共にEF58-60・61号機の登場まで務めました。

戦後もEF57やEF58とともに東海道本線の普通列車運用を中心に使用されていましたが、東北本線の直流電化区間の延伸に伴い、1958(昭和33)年に沼津機関区から宇都宮機関区へが転属しました。

その中から5機が1969(昭和44)年より順次、EF59形に改造され、東北組は1975(昭和50)年に全車廃車、EF59形となった広島組は元EF53と共に1986(昭和61)年に廃車となりました。


と、EF59という機関車をEF52・EF53の視点から振り返ってみましたが、広島車両所へ保存されているEF59は。

静態保存されている21号機は現存する唯一のEF56であり、カットモデル保存されている16号機は、EF58-60・61号機が登場するまでお召指定機だった・・・・というお話しだったとまとめて戴いてもOK(笑)

こんなに長々と語ったのにね。


-追伸-
本文内でご紹介した元お召し機のEF59-16(元 EF53-17)号機は、新型コロナウイルス感染症 = COVID-19の蔓延防止措置期間中となる2022(令和4)年2月に、何の前触れもなく突然 EF61-4号機とともに解体処分されました。

天皇陛下が御乗車される特別な列車──お召し列車の戦前の牽引機と言うことで、とても人気があった機関車で、広島車両所公開イベントの再開において、再び会えることを楽しみにしていた人もたくさんいたのですが。

残念なことにコロナ禍の下に、もう2度と会えなくなってしまいました。

人間ではなくあくまでも機械ではありますが、コロナウィルスの犠牲となった方々と同様に、冥福を祈りたいと思わずにはいられません。

黙祷。




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Do you like Japanese hot pot dishes?,你喜欢日本火锅吗?beginning of winter,立冬

11月7日は二十四節気の一つである"立冬"です。

中国では寒さに備えて栄養あるものを食べ、厳しい冬に備えるという風習があるそうです。

日本でも温かい物を食べて冷えに備えましょうと、11月7日を"鍋の日"に制定されています。

「立」は始まりという意味で、「冬」には終了という意味もあり、農作物を収穫した後は、それを春まで大切に消費しましょうという意味合いが込められています。

EF58-113・D52-1

さて、話しはちょっと戻るのですが、1962(昭和37)年4月から1973(昭和48)年9月の間の広島車両所を想像してしまったのですが。

70系・73系・80系の電車やキハ20・キハ23・キハ45・キハ55・キハ58といった気動車陣に、オハ35系やスハフ42形などの客車と、8620・C11・C12・C56・C58に混じってDE10が検査を受けている風景。

まさに鉄道模型の世界ですが、47年前には実際に広がっていた景色です。

話しは変わりますが、以前は5時に公開していたブログを、最近ちょっとこの時間帯が忙しいので、今回から当面の間7時過ぎにすることにしました。




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