ж 10 ж 東海道本線347M-昭和51年(1)
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中学生入学後すぐに入った課外活動はバレーボール部であった。入部動機は「友人に誘われたから」で特に興味があった訳ではなく、それどころかほとんど体験した事すらなかった。
その頃の人気はテニス部と野球部、そして市内では強い方に数えられていたバスケットボール部で40名ほどの新入部員を獲得していた。しかしサッカー部や卓球部などの不人気スポーツは新入部員10名程度でバレーボール部も例外ではなく校庭の片隅のコートで細々とその活動は行われていた。
新入部員に課せられたのは玉拾いと走る事と声を出す事であった。
これを怠けていると、いや本人たちは怠けているつもりは一切ないのだが、ペナルティーが課せられる。それはスポーツ根性ものの代表とされていた「ウサギ跳び」。時にはコートの周りを、時にはグランド一周をとよくピョンピョンやらされた。
ペナルティーはもうひとつあった。それはフライグレシーブ。通称「突っ込み」。
フライングレシーブとはボールを受ける際、走っても間に合いそうもない場合に落下地点に向かって頭から飛び込んでいって先に伸ばした腕で受けるという技で、受けた後はまず両手を地面に着けて次に胸が接地した時点で体を送り出すように腕を後ろへと蹴り出すようにして体を滑らせ落下の衝撃を和らげるのである。
これは実際の試合でも多く使われる有効な技ではあるのだが見た目が派手な事も相まって、たとえそれでも間に合わずポールが落ちてしまってもその落下点に「突っ込み」をして闘志を表すというバレーボールならではの根性表現の代表でもあった。
これがペナルティーで使われる場合はむろん根性の部分だけが強調されたものとなり、「その場で突っ込み5回」などと怒っている様なそれでいて少しにやけている様な先輩によく命じられた。
むろんいきなり「突っ込み」を命じられる事は無い。この技はやはりそれなりの練習をしないと出来ないのである程度マスターした頃からペナルティーとして使われるようになる。
これの練習を始めた頃は惨憺たるものであった。まず先輩が手本を示す。それも最初だけ。後はそれを思い出しながらただ只管「突っ込み」。着地に失敗して胸を強打し呼吸困難になる。体操着の胸は泥だらけ。それが擦り切れて来る。胸も擦れて真っ赤。新しい体操着をあっという間にボロボロにしてしまい、毎日泥だらけで帰っ来る私に向かって母が言った。
もう少しかっこいい部活にすればよかったのに。
練習時間は放課後。冬は練習を始める頃にはもう日が沈みかけていてちょっとボールに触るくらいで終了。ナイター設備が無く日が暮れると校庭は真っ暗になった。強豪バスケットボール部は体育館を使っていて日が短い季節でもみっしり練習していたり、ど根性野球部は暗い中ボールを追いかけていたりのを横目に早々の下校。また、時にはコートが溶けた霜柱でぐちゃぐちゃになっていて練習にならない事もあった。雨の日もしかりで、校舎内で廊下や階段を使った筋トレを行う事もあったが大抵は休み。
陽が暮れるまでの練習だったので夏場の練習は長くそしてきついものであった。中には途中でダウンしてしまう子もいた。今思えばおそらく熱中症であったのであろう。当時は「へたばるから」という理由で練習中の水分補給は厳禁であった。それでも救急車を呼ぶような事態になる事は無くダウンした子も木陰で少し休ませると復活した。むろんそれでも水分は与えられていない。
唯一給水が暗黙の下に認められていたのが試合中であった。
これは試合に出ている選手だけに与えられていた特権で、試合中にタイムがかかると監督がコートまで進み選手がそれを囲む。そこへ一年生がタオルを届ける。名目上は汗をふくタオルであるがそれにはたっぷりと水が含ませてある。手渡された選手は汗を拭くふりをしてそのタオルを吸う。むろん、こっそり吸っていたのは監督に対してではない。このくらいの暑さなんともない。まだまだやれるぞ。相手チームへのはったりである。当然相手も同じ事をやっているのだが。
このような状況だったので練習後の水飲み場はいつも大渋滞をしていた。どの子も腹がガボガボになるくらい水を飲んだ。あまり長い事飲んでいると「いつまで飲んでるだ」と後ろからどなり声が上がる事もあったがそれでも飲んだ。そしてこの水が美味かった。
喉が渇いていない時に飲む学校の水はまずかった。この辺りの水源は相模川で、城山ダム(もしくは相模ダム)から延々とトンネルを通ってきて近くの長沢浄水場から配水されていた。その浄水場を見学に行った事があるが、トンネル出口付近のその水は緑色に濁っており、とても飲み水になるとは思われないようなものであった。
その水が濾過されて各家庭と同じ様に学校へも来ていたのだが家の水は冷たく美味かったのに学校の水は生ぬるくそして薬臭かった。学校の水は独自に消毒薬が添加されていたのかもしれない。学校側が神経質過ぎたのか、浄水レベルが低く各家庭の水がそのままではあまりよいものでなかったのかは解らない。
練習後にそれほど水を飲んだというのに着替えて下校する頃にはまた喉が乾いてしまって校門近くの文具屋兼駄菓子屋でジュースを買って飲んだ。冷蔵ケースの中には様々なジュースが冷やされていた。皆たいていはその中から小さな300ml入りくらいの瓶を拾い出して飲んていたが、時にはケースの隅の方にドテンと居座っている威圧感ある1L入りコカコーラやスプライトに手を出す子がいた。1L入りは登場したばかりで目新しいという事もあったが、だからと言ってその子がそれほどに喉が渇いていた訳ではない。これに手を出すのは1つの遊びであった。
その遊びとは「1L一気飲み」。別にそれが出来るかどうか何かを賭けていたのでもなく、誰かに強制されたものでもない。ただいきなり「よし、挑戦するぞ」と手を出すのである。
これを成功させるにはあらかじめやっておかなければならない事がある。それはズボンのベルトを緩めておく事。
始めの半分ぐらいまでは結構すんなりいく。そのあたりでゲップをして圧を抜いておけば後半もなんとかいけるが、ゲップをせずに一気飲みをして初めて完全なる成功となる。なので突きあげて来るガスをぐっと我慢して飲み続ける。終盤戦ともなるとお腹はパンパンになる。この頃になってベルトを緩めようとしてももう手遅れとなる。膨れたお腹に食い込んだベルトは緩める為に引っ張るという事が出来なくなっている。ゲップを出してお腹をへっこませればよいのだが、その状態になるとお腹が締め付けられ過ぎていて容易にゲップは出ない。そしてじたばたしているうちに益々ガス圧は高くなる。これはもう地獄の苦しみ。こうなったらゲップが出るのを待つか、友人が無理やりベルトを引っ張って緩めてやることとなる。
校門前の店でひと騒ぎしてからあらためて帰途に着く。しかし、素直には帰らない。次によく立ち寄ったのが本屋であった。
バス通り沿いにあるその本屋は小さい個人商店であった。だが建物は新しく店の前に少々のスペースもあった。
小学生の頃は自ら本屋へ行くという事はまずなかった。せいぜいが低学年の時に通っていた古い学校のそばにあった古い本屋で、それは通りにべったりと面して建っていて自転車すら置く場所がなく、必要以上にガラガラと大きな音を立てる硝子戸を開けて入ると店番の人がいて何か買わずには出られない雰囲気の物であった。
しかしその店はとても開放的でたいてい大きなガラスドアは開け放たれており、道路拡幅予定地かもしれない店前の駐車スペースらしき場所に鞄を放り出して立ち読みにふける子供たちでいつも賑わっていた。
ちなみに鞄は学校指定の物だったので皆同じものを持っていた。よって立ち読みを終えていざ帰ろうとすると「あれ?俺の鞄はどれだ?」という事になる。そこで皆鞄に何らかの目印を付けていた。私が付けていたのはキーホルダー。家族で出かけたり遠足などで出かけた先でキーホルダーとペナントを買いそれを鞄に付けた。むろんペナントは部屋の壁にである。やがて鞄はキーホルダーだらけとなり、壁はペナントだらけとなった。卒業する頃には鞄のキーホルダーは30個近くになり、中にはどこぞの神社で買ったおみくじキーホルダーなどもあって、ときおり友人がそのおみくじを引いたりと、それをじゃらじゃら言わせながら通っていた。
その本屋で初めて存在を知ったのが鉄道関係の月刊誌であった。だが内容が難しく、載っている写真をペラペラと眺めるだけで買うという事は無かった。
やがて、そんな立ち読み専門の私が月に一度だけは顧客となった。
月末にその本を入手するとその晩はついつい夜更かしになってしまう。もっともその見方はどこかへ空想旅行へ行くというのではなく幹線系にひしめき合う特急列車の時刻を眺めて楽しむという物であった。
だからローカル線のページなどはほとんど見ない。巻末の私鉄のページに至っては全く見ない。というような偏ったもので、逆に東北本線のページは特によく見ていたので背表紙が折れてしまって二冊に分かれてしまう寸前状態となってしまう号も多かった。
もう1つその本屋でそれこそ清水の舞台から飛び降りるような気持ちで購入した本があった。それは鉄道専門誌の巻末の広告に載っていたもので、注文取り寄せとなる。
注文すること自体は何ら問題は無く、書籍名と出版社などのメモを渡すだけ。―よく専門誌巻末に注文用の短冊が付いている事があったが、立ち読み専門だったのでそれをメモした―
問題はその値段。
ちなみに、校門前の店で飲んだコーラは300ml入りで60円。500mlホームサイズで70円、1Lでも150円。500mlや1Lは別に瓶代が取られたがそれは瓶を返せば返却される。そして時刻表は400円。ただし購入を始めてからすぐの1976年4月号からは450円であった。
ところがその本の値段は上下巻合わせて5000円。実に時刻表の約一年分。こずかいをやり繰りしてなおかつ親におねだりして注文し待つ事約ひと月。入荷した旨の連絡があった翌日はずっとそわそわ。部活が終わるのももどかしく、本屋へ駆けつけると少し誇らしげに本を受け取った。
以来暫くの間は時刻表そっちのけで毎夜毎夜飽きずにページをめくった。
--第44号(平成24年1月8日)--
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