急行「銀河」~戦後における「名士列車」の系譜 | 書斎の汽車・電車

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 前回、戦前の東海道線の夜行急行第17・18列車について触れました。

 1等、2等寝台車と洋食堂車主体の編成で、「名士列車」の異名がある列車でした。

 

 この列車は戦時中に廃止されてしまいましたが、実は戦後にも復活しています。今回は「名士列車」戦後版のお話をしましょう。

 昭和24(1949)年9月15日の時刻改正で、東海道線には待望の特急列車が「へいわ」という愛称名で復活しました。この時、東京~大阪に第15・16列車という夜行急行が増発されました。この列車こそが、戦前の「名士列車」の復活といえる存在でした。

 荷物車に続いて戦後派の1等寝台車マイネ40が2輛、その後に2等座席車5輛という編成は、戦前の「名士列車」には及びませんが、オール1・2等で、しかも急行列車としては初めて「銀河」の愛称名が付き、さらにはバックサイン(トレインマーク)を掲げるなど、正に「特急並み」の存在でした。

 

 しかし、この戦後版「名士列車」は長続きはしませんでした。運転開始から間もない9月24日からは、2等座席車を減らし、3等座席車に置き換えています。やはり戦後の混雑のひどい状況の中で、1・2等のみの列車は実情にそぐわなかったのでしょう。美しいバックサインもまた、程なくして姿を消しました。

 昭和25(1950)年10月1日改正時の「銀河」の編成は、荷物車、1等寝台車2輛(マイネ40、マイネ41各1)、2等寝台車1輛(マロネ39)、2等座席車3輛、3等座席車7輛となり、運転区間も東京~神戸となりました。

 

 その後、東海道線の夜行急行列車は、日本経済の復興、成長に合わせるように、本数を増やしていきます。東海道新幹線開業直前には、寝台車主体の客車急行だけでも、「銀河」「すばる」「明星」「彗星」「あかつき」「月光」「金星」(下り列車の東京駅発車順)となり、このほかにも電車による座席夜行急行があるなど、黄金時代といえます。

 実はこの中で、「名士列車」の末裔といえるのは「銀河」ではなく「彗星」でした。この列車は昭和32(1957)年10月1日改正で、全国の急行列車に先駆けて寝台列車化されました。新幹線開業直前には、他の列車も寝台列車化が進んでいましたが、「彗星」はその上をいっていまして、「銀河」「明星」などは2輛しかない1等寝台車(モノクラス化でかつての2等を1等、3等を2等と呼び代えています。またそれに先駆けて旧1等寝台車は2等寝台車に包摂されました)が、「彗星」(と「月光」)では5輛連結されていました。「彗星」はさらに、食堂車(オシ16)も連結され、これは「月光」にもありませんでした。この頃は「銀河」にとっては「スランプ期」といえるかもしれません。

 昭和39(1964)年10月1日、東海道新幹線開業に伴い、東海道線の夜行急行は「銀河」「明星」「月光」「金星」のみとなり、このうち「銀河」には1等寝台車4輛と食堂車、「明星」「月光」は1等寝台車5輛が連結されました。ただ、1年後には「銀河」「明星」の2往復が残るのみとなり、1等寝台車は2輛に減車、食堂車もなくなってしまいました。また昭和43(1968)年10月1日には愛称も「銀河」に統一されています。(この時「銀河2号」は姫路まで延長)

 その後、昭和47(1972)年3月15日、新幹線岡山延伸時に、「銀河2号」は再び東京~大阪での運転となり、「銀河1号」は「紀伊」との併結となりました。3年後の昭和50(1975)年3月10日、新幹線博多開業に合わせたダイヤ改正では「銀河1号・紀伊」はとうとう特急格上げとなりますが、これを機に「銀河1号」は行先を山陰の米子に変更し、愛称も「いなば」となりました。(その後出雲市まで延伸され、「出雲」の2往復目となっています)

 

 かくして1往復となってしまった「銀河」ですが、それから1年弱の昭和51(1976)年2月20日からは、全国の急行に先駆けて20系固定編成客車化されました。やはり「銀河」は特別な存在だったといえるでしょう。

 その後「銀河」の車輛は24系に変わりますが、オロネ24も加えた編成で、特急とは遜色ないものでした。それでも、平成20(2008)年3月15日改正で廃止されるまで、「急行」のままでした。元は準急列車出身の「特急」が幅を利かせる中、安易な特急格上げの風潮にあえて背を向けて、「急行」としての矜持を保ち続けた「銀河」は、戦前の「名士列車」の系譜に連なる存在であったといえるでしょう。