原敬が乗るはずだった列車 | 書斎の汽車・電車

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 今回も大正時代のお話です。

 何も大正時代を舞台にした某アニメの大ヒットに便乗したわけではありません。今回のテーマ、発生からちょうど100年ということで、取り上げるなら今しかないでしょう。

 

 今から100年前の内閣総理大臣は原敬でした。「平民宰相」などといわれる原ですが、南部藩(盛岡藩)の家老格の家の生まれで、庶民の出というわけではありません。ただ、爵位を持たず(辞退し)、一貫して衆議院議員として活動し、首相にまでなったことから「平民宰相」といわれたのでしょう。ともあれ、日本の歴代の首相の中でも、五本の指に入る存在であるといえます。

 

 原が立憲政友会を与党とする、政党内閣を組織したのが大正7(1918)年9月29日のことですから、2年余りにわたって内外の諸問題に対応してきたことになります。そんな中、大正9(1920)年11月4日、事件が起こります。

 この日、原は京都で行われる立憲政友会近畿大会に出席するため、東京駅に到着しました。一旦駅長室で休憩ののち、駅長の先導で改札口に向かいました。当時の東京駅は、現在の丸の内南口が「乗車口」、丸の内北口が「降車口」となっていましたので、丸の内南口の改札付近ということになりますが、午後7時25分頃、柱の陰に隠れていた男が、突如原首相に襲いかかり、右胸を刃物で刺しました。傷は右肺から心臓に達し、原はほぼ即死状態であったといいます。(原が暗殺された場所を示すプレートが、東京駅丸の内南口に残されています)

 犯人の男はその場で取り押さえられました。中岡艮一という青年で、当時は山手線大塚駅の転轍手でした。中岡がなぜ原首相を暗殺したのか、動機や背後関係は今もよくわからない点が多いようですが、原の死より、その後の日本の政治が一挙に不安定なものになってしまったのは確かです。

 

 さて、ここからは鉄道趣味人向けのお話です。暗殺された原が乗るはずだったのはどの列車だったのか?というお話です。

 これは別に謎でも何でもありませんで、東京発午後7時30分の神戸行き急行(第9列車)でした。この列車でしたら、翌朝7時半頃には目的地の京都に着きます。

 この第9列車、1等車と2等車のみの編成で、当然寝台車主体、食堂車は洋食堂という、当時の日本を代表する列車でした。途中停車駅も、当時唯一の特急だった下関行き第1列車とほぼ同じでした。原首相が何号車に乗るはずだったのかまでは判りませんが、1等寝台車であったと思われます。

 この第9列車(上りは第10列車)の流れを汲むのが、昭和戦前期に東京~神戸で運転されていた急行、第17・18列車でした。昭和10(1935)年の記録によれば、1等寝台車3輛、2等寝台車5輛、2等座席車1輛、洋食堂車1輛、荷物車1輛という編成で、「名士列車」などと呼ばれていたそうです。現在なら当然特急列車になるのでしょうが、当時はこうした豪華列車でも「急行」のままでした。この列車、列車番号こそ113・114列車と変わりましたが、昭和18(1943)年10月1日改正で廃止されるまで、3等車を連結することなく、「名士列車」であり続けました。

 

 原敬に話を戻します。原と、彼が率いた立憲政友会の鉄道政策については、典型的な利益誘導型政治であり、国鉄の赤字ローカル線問題の元凶であるとの批判がある一方、日本全体の発展を考えた、公共政策の一環であるという高評価もあります。その是非を論じるのは、日本鉄道史そして近代日本政治史の極めて重要なテーマでして、私なぞが軽々しく云々できる問題ではありませんが、大正時代の鉄道史について、政策と技術の両面からアプローチしていけば、何か新しい発見があるかもしれません。