旅メモ ~旅について思うがままに考える~

元鉄道マンの視点から、旅と交通について思うがままに考えたことを紹介します。

この1枚から 男体山の吹き下ろしにも負けずに走り続けた107系

広告

 いつも拙筆のブログをお読みいただき、ありがとうございます。

 10月初めに更新して以来、3週間ほど時間が空いてしまいました。

 本業が学期末の繁忙期に加えて、ブログとは別に依頼された原稿を執筆することになり、そちらの方に注力しておりました(これについては、いずれ時期が来たらお知らせします)。いつも楽しみにしていただいている皆様には、大変申し訳ございませんでした。

 これからも変わらずご愛読いただけると嬉しい限りです。

 

 日光と言えば日本を代表する観光地です。いまでこそ、海外から訪れてくる旅行者が選ぶ観光地は多様になりましたが、戦前から、海外から訪れた観光客には、まずもって京都と日光を紹介するのが、日本の「常識」だったといえるでしょう。そのため、東京から日光への鉄道は、関西には及ばないまでも熾烈な争いを繰り広げていました。

 東京から日光へと向かうことができる鉄道は、国鉄→JRであれば、東北本線日光線の乗り継ぎでしょう。とはいえ、わざわざ海外から訪れる旅行客に、脚の遅い普通列車に乗って宇都宮まで行き、そこで乗り換えて、なんていえません。ですから、日光へと直通する優等列車は早くから走らせていました。

 古くは日光線が非電化だった頃は、最新鋭の準急形気動車キハ55系で運転される準急「日光」。さらに時代は進んで電化されると準急用としながらも特急形に引けを取らない設備を誇った157系と、国鉄としては後にも先にもない大盤振る舞いな車両で、安価な料金だけで乗れる列車を運転していました。

 一方、私鉄の東武鉄道も負けてはいませんでした。東武は私鉄でありながら、「貴賓車」なる特別車両を導入し、海外から訪れてくる富裕層や要人の利用に備えていました。戦後になり観光需要が回復すると、5700系を製造して特急「けごん」「きぬ」として運用してこれに対抗しました。5700系は転換クロスシートを備え、キハ55系のボックスシートとは一線を画した接客設備をもち、さらにはカルダン駆動を採用するなど、東武鉄道の看板列車として相応しいものでした。

 その後、国鉄日光線直通の優等列車の運転を取りやめ、日光への観光客輸送を巡った熾烈な争いは終焉を迎え、以後は東武鉄道のDRCやスペーシア、さらには近年のリバティがその役を担い続けました。

 一方の国鉄はというと、優等列車の運転を取りやめたことで、日光線はごく普通のローカル線へと転じていきます。列車も普通列車のみで、急行列車の削減で余剰になった165系や近郊形の115系が宛がわれ、細々とローカル輸送に徹するようになります。

 しかし165系は老朽化が進んだことと、デッキ付の2ドアが災いしてラッシュ時の混雑を捌けなくなり、ダヤの乱れを発する原因にもなっていました。115系は輸送力としては申し分なかったものの、最低でも3両編成を組まなければならないため、日中の換算時間帯では輸送力が過剰になる問題を抱えていました。

 とはいえ、問題は認識していたものの、財政が火の車だった国鉄に新車をつくるよゆうはなく、分割民営化までそのままの状態が続いていました。

 

f:id:norichika583:20201004003335j:plain

 

 しかし、日光線を引き継いだJR東日本は、発足後間もなくこの問題の解決に手を付けました。

 輸送力が過剰であることは、経済的にもよいこととはいえません。まして曲がりなりにも民間会社になったのですから、経営的にもこの問題を放置することは看過できなかったのです。

 そこで登場したのが107系でした。

 裾絞りのない車体に3ドア、車内はロングシートで前面は切妻、貫通扉付で前面窓の上下は黒色のジンガード処理されたいわゆる「パンダ顔」のデザインは、国鉄時代にローカル専用としてつくられた105系や119系の想起させるものでした。もちろん、107系も小単位で運転されるローカル線用なので、105系・119系の流れを汲むものと考えて良いでしょう。

 しかし107系は設計思想こそほぼ同じでしたが、105系・119系がまったくの新造車(103系からの改造車を除く)であるのに対して、こちらは廃車となった165系の機器類を流用したことと、新製車としては近年では珍しく、すべてJR東日本の工場(後の総合車両センター)でつくられたことでした。

  自社の工場で車両を作るという例は、旧国鉄時代には蒸機時代にはよくありましたが、民営化後ではまとまった数というのはあまり例がありません。筆者が知る限りでは、JR九州が783系を新製するときに一部が小倉工場で作られたようですが、同一系列でしかも全車というのは非常に貴重だといえるでしょう。

 また、107系は製造当初から冷房化されてはいましたが、そのどれもが165系時代に装備されていた冷房装置(Tc車はAU13、Mc車はAU72)や台車(TR69/DT32)、さらには主電動機もMT54を装備するなど、多くの機器類が使われていました。

 107系は小山電車区(後の小山車両センター)に配置されると、さっそく日光線での運用に就きました。日光線は意外にも勾配が連続する路線で、日光へ向かう下り列車は長い上り坂を走り続けるため、MT54はフル稼働という状態。上り列車は逆に下り勾配が続くため抑速ブレーキを使い続けるという、短い路線ながらも過酷な環境でした。加えて冬は男体山からの吹き下ろしもあり、関東地方のJR線の中では寒さも厳しく、時には雪が降り積もることもあるようで、写真をご覧になってもお分かりのように、積もった雪が残っていることも珍しくありませんでした。

 1988年に就役して以来、107系0番代は日光線を往復することに専念し続けていましたが、このような過酷な環境で走り続けたことや、もともとの機器類が165系からの再利用品であることもあり、年々老朽化が進んでいきました。そして、ついに15年間走り続けてきた日光路へと別れを告げ、2013年にはすべてが運用を退き、廃車・区分消滅しました。

 筆者が107系に乗ったのはたった一度きりでしたが、民営化後につくられたとはいえ、その基本はまだまだ国鉄時代の設計そのもの。乗っていても国鉄形と寸分違わないその雰囲気は、まさに過渡期につくられたという特徴だったのかも知れません。

 ただ、こうして写真を眺めると、今日走る205系600番代と比べれば、やはり日光という日本を代表する観光地であり、歴史の深さを想起させる路線なので、ギラギラのステンレス地肌を煌めかせる今日の車両よりは、鋼製車でシックな塗装を身に纏った107系の方が似合っていると思わずにはいられません。まあ、時代の流れなので仕方のないことなのでしょうが、遠くに望む男体山はそんな光景を遠くから見守り続けていくことでしょう。

 

 今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

 

あわせてお読みいただきたい

blog.railroad-traveler.info

blog.railroad-traveler.info

blog.railroad-traveler.info

 

#JR東日本 #日光線 #107系