西武電車・春日部に現る? | 書斎の汽車・電車

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インドア派鉄道趣味人のブログです。
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 タイトルをご覧になって、皆さま「?」となるでしょうね。春日部といえば東武鉄道の勢力圏で、西武の電車が現れる余地はありませんから。(まあ、一時期西武百貨店があったそうですが、今回のブログとは無関係です)

 

 『鉄道ピクトリアル』誌が先月号(阪和線特急にかまけているうちに「今月号」としてご紹介できなくなってしまいました)で東武鉄道野田線を特集しています。その巻頭に澤内一晃氏による「東武鉄道 野田線の歴史過程」という通史が載っています。澤内氏の論考の中に、(旧)西武鉄道による大宮~粕壁(当時の呼称)の免許線の話題がでてきます。今回はこの幻となってしまった路線についてご紹介しましょう。

 

 現在の新宿線等の前身である(旧)西武鉄道は、大正10(1921)年3月29日、「大宮町粕壁町間鉄道敷設免許申請書」を出願し、大正12(1923)年3月31日に免許を得ました。西武がなぜ粕壁までの路線を出願し、免許を受けることができたのかといいますと、当時の(旧)西武鉄道には川越久保町と大宮を結ぶ川越東線(のちの大宮線、旧川越電気鉄道)があり、その延長線的な存在だったわけです。

 

 その「粕壁線」の概要についてご紹介しましょう。大宮~粕壁10哩25鎖(約16.5km)、電気動力、単線で軌間1067mm、図面類が残されておらず詳細は不明ですが、停車場4ヶ所を設ける予定でした。また、途中経由地として、日進村、大宮町、片柳村、猿ヶ谷戸村、大谷村、東門前村、新堤村、東宮下村、柏崎村、岩槻町、川通村、豊春村、粕壁町の名が挙げられています。市町村合併が進む前で、距離の割には煩雑ですが、どうやら現在の東武野田線よりは南側に敷設される計画だったようです。また、既成の川越東線は、軌間1372mmの軌道線でしたが、これも1067mmの鉄道線に改築して粕壁線と結ぶ一方、川越方においても、旧川越鉄道の川越線(現在の新宿線)との連絡線を建設し、直通運転を実施する計画だったようです。なお、大正10(1921)年8月28日付「追申書」によれば、大宮での粕壁線と川越東線の連絡は「隧道」によるものとしており、省線(東北本線、高崎線)をアンダーパスするつもりだったようです。

 

 (旧)西武鉄道に対する粕壁線の工事施行認可申請期限は、大正13(1924)年3月30日でした。工事施行認可申請が出されて初めて、鉄道路線は具体的な姿を見せることになります。粕壁線の場合も、既成の鉄道(東武鉄道、武州鉄道など)との関わりや、途中駅の詳細設計などはこの段階で明らかになるはずだったのですが、(旧)西武鉄道は大正13(1924)年3月17日、粕壁線に関して「工事施行認可申請期間伸長認可申請書」を提出し、同年5月27日に許可されています。(今回は大正14年3月30日まで延長)その理由としては、省線東北線改良工事等との関係で出願当時の予算では困難などと記していますが、実はこの申請に先立つ大正13(1924)年1月24日付で、「免許線一部変更」を申請中でもありました。

 その「一部変更」の内容ですが、大宮ではなく浦和と粕壁を結ぶという唐突な計画変更でした。西武とは縁もゆかりもない浦和ですが、川越東線の「並木」から分岐して浦和に至る新線の建設も計画されていましたので、粕壁線はこれと接続することになります。この計画変更の背景は今一つ判りませんが、県庁所在地である浦和への進出を画策したということでしょうか。

 これに対する鉄道省の反応は「否」でした。大正14(1925)年3月11日付の「粕壁線工事施行認可申請期間伸長許可申請書」については、同年6月27日、「不許可」となり、7月1日付『官報』で西武鉄道粕壁線の免許は「失効」してしまいました。鉄道省側の見解としては、他にも競願線がある中で(旧)西武鉄道に免許を与えたのは、大宮で既成線と接続があるからであり、浦和への起点変更は「本免許の趣旨にもとる」ということになります。

 

 (旧)西武鉄道の免許が失効したことにより、大正15(1926)年5月31日、北総鉄道に野田町~粕壁~大宮の免許が与えられ、こちらは昭和4(1929)年12月9日までに全線開業しました。現在の東武野田線の前身です。

 かくして、西武電車の粕壁乗り入れは幻となってしまいました。もし実現していれば、今も春日部駅の西側の外れに西武2000系あたりが停車している情景が見られたかもしれませんが、当時の実情を鑑みれば、その可能性はかなり薄かったといえましょう。大正末期から昭和初期は、後世から見れば「思いつき」としか言いようがない鉄道計画が数多くありました。(旧)西武鉄道に限った話ではありませんが、一見「思いつき」でしかない計画でも、既成線を持っている鉄道によるものであった場合、免許が与えられることが多かったようです。これが全く実績のない事業者であれば「門前払い」となってしまうのですが。

 で、(旧)西武鉄道の場合ですが、粕壁線についてはとりあえず「ツバをつけた」だけで、建設の優先順位は高くはなかったと思われます。あくまでも最優先は村山線(現在の新宿線)建設と川越線の電化でした。川越東線(大宮線)の改築にしても、内務省による荒川改修工事との関係からなかなか実現しないうちに、国鉄川越線の建設計画が浮上すると明治以来の軌道線の姿で放置され続け、国鉄川越線開業とほぼ同時に廃止されています。また、川越市内の連絡線建設も、川越市内の都市計画との関係もあったにせよ、(旧)西武鉄道はなかなか本気を見せないうちに「失効」しています。当時の『鉄道省文書』には関係府県担当者による「副申」が添付されていることが多いのですが、川越市内連絡線に関する埼玉県の担当者のコメントはなかなか辛辣でして、「関係地方ニ於テハ会社ノ態度ニ相当ノ非難ノ声有之候」「余リニ経営上ノ利害ノミニ堕シ交通上ノ利器タル事実ヲ忘却」などと凄い文言が並んでいます。本件に限らず、当時の埼玉県の担当者は鉄道事業者に対して厳しい印象があります。これに対して東京府の担当者のコメントは、相当荒唐無稽な計画に対しても前向きな評価をしていることが多いように思います。(あくまでも「個人の見解」ですが)

 私個人の印象はともかくとして、今回は、(旧)西武鉄道にはこんな路線計画もあったというお話をお届けしました。これからも(旧)西武鉄道や武蔵野鉄道などの「幻の路線」をご紹介できればと思います。