国鉄電車特急70周年③~阪和線「特急電車」の興亡 | 書斎の汽車・電車

書斎の汽車・電車

インドア派鉄道趣味人のブログです。
鉄道書、鉄道模型の話題等、つれづれに記していきます。

 はじめに、前回・前々回の補足を少々。

 『鉄道ピクトリアル』2003年2月号(特集「阪和線」)の33頁に「阪和線の特急電車」というグラフが掲載されております。(写真はいずれも長谷川明氏撮影)特急運用に就くモハ63562の写真は、昭和27(1952)年8月13日の撮影とあります。翌年までにはモハ63は全て他線に転出していますから、この写真は貴重です。また、同じ日に撮影されたモハ52005の写真も載っています。こちらも「特急」のサボがついていますが、更新改造前にも関わらず塗装はぶどう色のままでして、この車輛は「阪和特急色」化されることはなかった可能性もありますが、後述するように「流電」のぶどう色化は更新前に始まっていたようで、確証はありません。

 

 同じく『鉄道ピクトリアル』の初期の頃の看板連載「買収国電を探る」でも、昭和28(1953)年12月号で阪和線を取り上げています。(著者は吉田明雄氏)昭和28(1953)年当時の在籍車は、国電形がモハ40(2輛)、モハ43(1輛)、モハ51(1輛)、モハ52(5輛)、モハ53(2輛)、モハ61(2輛)、サハ48(2輛)、モニ53(2輛)、社形がモハ2200(旧モヨ100・6輛)、モハ2210(旧モタ300・28輛)、モハ2250(旧モタ3000・4輛)、クハ6200(旧クヨ500・7輛)、クハ6210(旧クタ600・5輛)、クハ6220(旧クテ700・4輛)、クハ6230(旧クタ750・1輛)、クハ6240(旧モタ3000、但し未電装・3輛)、クハ6250(旧クタ7000・10輛)という陣容で、前述のとおりモハ63はすでに転出しています。この中の、モニ53を除く各車が、「百鬼夜行」時代に「特急」に使用された可能性があります。この吉田氏の記事によれば、「流電」モハ52の更新修繕はモハ52002を皮切りに始まったばかりでしたが、外部塗装については(「半流」モハ43、53も含めて)一足先に全車ぶどう色一色になっていたようです。

 吉田氏によれば、昭和28(1953)年時点での阪和線「特急」の編成は、朝の3本が、MMの2連(社形の運用?)、MTMの3連、MTTMの4連でそれぞれ運転され、夕方の3本はMMTcまたはMTMの3連だったそうです。

 

④70系「スカ形」の時代

 前回の最後で述べましたが、ライバル南海電鉄と阪和線の「特急」の格差は広がりつつありました。また、阪和線もラッシュがひどくなり、2扉の「流電」「半流」では対応が難しくなってきました。そこで国鉄は、阪和線の「特急」「急行」用として、3扉セミクロスシートの70系電車を投入しました。最初の投入先が横須賀線だったことから「スカ形」などといわれる70系そのものは、京阪神間ですでに使用されており、目新しい存在ではありませんでした。しかし、緑1号(ライトグリーン)とクリーム3号(オレンジがかったクリーム色)の「阪和色」に塗られた70系が阪和線に新風を吹き込んだのは事実でしょう。

 昭和30(1955)年の11月から12月にかけて、鳳電車区にはモハ70069~70074(6輛)とクハ76072~76077(6輛)が配置され、これらの車輛がTcMMTcの4輛編成×3本を組み活躍をはじめました。翌年11月にはモハ70075、70076、クハ76078、76083が加わりますが、何と言っても阪和線70系電車の白眉は、昭和32(1957)年夏から翌年初めにかけて登場したモハ70311~70319(9輛)とクハ76307~76315(9輛)でしょう。70系300番代のいわゆる「全金車」で、国鉄旧性能車のラストを飾る整った外観の車輛で、この全金車のみの4連は阪和線名物でした。

 ところで、こうして出揃った70系のみで4輛編成を組むと、2輛足りませんよね。そこは「予備車」としてモハ61001とクハ6210がチョイスされ、この2輛も70系と同じ「阪和色」をまとっていました。モハ61形はモハ41の出力増強車、クハ6210は社形ですが、南海山手線時代に入線した南海カラーの強い車輛です。

 70系が相次いで投入された一方で、これまでの主役であった「流電」「半流」グループが阪和線を去る日がやってきます。まずサハ2輛が横須賀線へ去り、昭和32(1957)年には残された車輛も飯田線に旅立ちます。(モハ43はさらに身延線へ)モハ52、53にとっては、この飯田線が「終の棲家」となりました。

 さて、70系投入以降の運転面の変化にも触れましょう。基本的には昭和30(1955)年11月15日以降の5往復体制でしたが、昭和32(1957)年1月25日から、東和歌山発7:10、7:40の2本が金岡(現・堺市)に停車するようになりました。

 

⑤「こだま」登場と阪和線「特急」

 昭和33(1958)年10月1日、特急料金を徴する特急「こだま」2往復が設定される(運転開始は11月1日)と、阪和線の「特急」は「快速」に、「急行」「準急」は「直行」に改称されました。というのが「定説」でしょう。(一部この改称が11月7日とする資料もありますが)ただ、「日本国有鉄道監修」と銘打った、日本交通公社『時刻表』によれば、昭和33年10月以降も、阪和線「特急」は運転を続けていることになります。それどころか「特急」は日中にも運転されるようになり、本数も大幅に増加、「急行」「準急」は再編の上、列車種別を「急行」に統合しています。このあたり真相は藪の中ですが、ともあれ、交通公社時刻表の内容に即して阪和線の状況をご紹介していきましょう。

 

天王寺発  8:20  9:20  10:20  11:20  12:20  13:20  14:20  15:20  16:20  17:40  18:20  18:50

東和歌山発 6:34  7:04  7:34  9:11  10:11  11:11  12:11  13:11  14:11  15:11  16:35  17:05  17:35

 

 停車駅ですが、鳳と紀伊中之島は全列車が停車。天王寺発17:40以降の3本は和泉砂川にも停車、東和歌山発6:34からの朝の3本は金岡と和泉砂川にも停車しました。

 11月7日からは天王寺発7:50の列車が増発されました。この列車も鳳、和泉砂川、紀伊中之島停車でした。このように13往復の「特急」が運転され、これに「こだま」2往復を加えれば、当時の国鉄線には15往復の電車特急が存在したことになります。

 あくまでも『時刻表』の記述によればですが、昭和34(1959)年2月1日付で、阪和線の「特急」は「快速」、「急行」は「直行」(さらに後年「区間快速」となる)に改称されました。なお、この時から「快速」全列車が和泉砂川に停車するようになりました。ここに、国鉄最初の電車特急は姿を消しました。やはり特急料金を徴さない「特急」の存在は許されなくなったのでしょう。なお、京阪神の「急行」は昭和32(1957)年10月1日に「快速」となっています。また、東京の中央線の「急行」も昭和36(1961)年3月17日に「快速」と改称し、国鉄線から急行料金を徴さない「急行」も全て姿を消したのでした。

 

⑥後日談

 昭和40(1965)年3月1日、阪和線に初の特急料金を徴する気動車特急「くろしお」「あすか」が運転を開始します。「あすか」は不人気で2年半ほどで廃止されましたが、「くろしお」はその後も運転本数を増やしていきます。一方、「快速」は次第に停車駅を増やし、その分所要時間もかかるようになります。独自の「阪和色」も合理化で「スカ色」に統一、さらにロングシートの103系が「快速」運用に加わる(モハ63の「特急」の後輩ですね)など、次第に個性を失うのでした。

 そんな中で、昭和47(1972)年3月15日、阪和線にも「新快速」がデビューしました。天王寺と和歌山(旧東和歌山)を9:20~15:20の間1時間おきに発車、途中鳳のみ停車で所要45分といいますから、往年の阪和電気鉄道「超特急」をしのぐ(こちらはノンストップで45分)という列車が誕生したことになります。車輛は113系6連で、京阪神の「新快速」と同じ「ブルーライナー」塗装でした。その後「新快速」は昭和52(1977)年3月15日、停車駅に熊取と和泉砂川を追加し所要48分と若干スピードダウンします。なお、この改正で阪和線から旧型電車(70系を含む)が全て姿を消しました。

 そんな中で紀勢本線の新宮までの電化工事が進捗していきます。昭和51(1976)年暮には、鳳電車区に「くろしお」電車化に備えて訓練用の381系電車が入線します。そして、昭和53(1978)年10月2日、「くろしお」は電車化、ここに阪和線電車特急は復活したのでした。なお、この改正で「新快速」は廃止されています。阪和線のその後についても、様々なエピソードがありますが、キリがないので今回はここまでといたします。