今や、JR西日本の 「アーバンネットワーク」 には無くてはならない存在の新快速。

その新快速が今年、 「運転開始50年」 という節目を迎えました。

東京にはそれに類する列車が見当たらないので、今も昔もそのインパクトは強烈なものがありますが、その一方で当時を知る者からすれば、 「よく50年も・・・」 という感覚の方が強いかもしれません。それだけ、運転開始当初の新快速はライバルの私鉄に対して、 「勝算あるの?」 的な中途半端的な船出だったんです。

 

このコーナーで新快速は幾度となく取り上げていますので、歴史的なものについては割愛しますが、よく新快速は 「戦前の関西急電がその源流である」 という文言が含まれた媒体を散見します。確かに、モハ43とかモハ52、戦後のモハ80を使った関西急電が新快速のご先祖様であることに間違いはないのですが、関西地区には別途料金が必要の急行と別途料金は不要の急行が存在したため、度々トラブルも発生したとか。そりゃそうですよね、同じ “急行” を名乗るのに、片や料金は要らない、片や料金をふんだくるとなれば、事情を知らない一般の乗客が利用したら 「どうなってんじゃっ!」 と噛みつきたくなるのも無理からぬ事。その事情を知っているのは大鉄局関係者と在阪ヲタだけで、一般の利用者は知らないし。

そのようなわけで、混同を避ける意味合いから、昭和32年から種別を快速に改めました。ですから、関西急電のDNAそのものは現在の京阪神快速に受け継がれています。

 

昭和45年に開催された大阪万博で、そのアクセス列車として運転されたのが臨時快速 「万博号」 でした。

「万博号」 についてもこのコーナーで何度か取り上げていますから重複してしまいますけど、 「万博号」 はあくまでも万博会場 (国鉄の場合は茨木駅) へのアクセスを目的にしていたため、途中停車駅を少なくしたのが大きな特徴。

万博終了後、大鉄局は 「この 「万博号」 を定期化出来ないものやろか? 京阪神間を出来るだけ短時間で結ぶには、 「万博号」 のような列車が必要や」 と思ったかどうかは定かではありませんが、その構想を具体化したのが新快速になります。

使用車両は、 「万博号」 で使った113系で、京都-西明石間に設定。途中の停車駅は大阪、三ノ宮、明石だけ。京都-大阪間は33分、大阪-三ノ宮間は23分という所要時間を設定して昭和45年10月1日運転開始に向けて調整を進めました。

 

しかし、運転を開始する前から厳しいハードルが待っていました。

国鉄本社が新快速運転に際して、首を縦に振らなかったのです。

このコーナーでも諄いほどお伝えしているように、国鉄時代における東海道本線草津-西明石間の複々線には縄張りがありまして、外側の外側線は 「列車線」 とも呼ばれ、国鉄本社の管轄。それに対して内側の内側線は 「電車線」 と呼ばれていて、大鉄局の管轄。列車線はその名が示す通り、特急や急行、貨物列車がバンバン走るのに対して、電車線は文字通り普通と快速がスローリーに走る線路。同じ敷地内なのに、列車線と電車線には大きな壁が立ちはだかっていました。

大鉄局としては、新快速は列車線を走らせるものとして計画していたと思うのですが、本社がそれを認めないとなれば、とにかく根気よく説得するしかありません。その甲斐あってようやく設定の認可が下りたのですが、厳しい条件が課せられました。それは 「電車線を走らせること」 でした。 「新快速は国鉄本社が考えたものではなくて、大鉄局が勝手に考えたもの。運転するのは構わないけど、おたくの領域内でやって下さい」 というのが本社側の主張でした。同じ東海道本線でも東京-小田原間の複々線は特急や急行に混じって普通列車も走るから、本社と東京南鉄道管理局の隔たりは無かったと思うんですが、もし、管轄が違うとするならば、特に東京-横浜間は東海道線の線路を特急と急行が使い、京浜東北線と湘南電車と横須賀線が共有するようなものですが、ホントにそれをやったら東京近郊のダイヤはひっちゃかめっちゃかになるのは必至。

まぁ、本社と大鉄局は犬猿の仲と言われていたようなので、新快速の列車線走行不許可は本社の大鉄局に対する嫌がらせとしか思えないのが全体的な見方であると思います。

 

それでも予定通り、10月1日から運転を開始した新快速でしたが、画像はそれから1年後の姿を撮ったものと思われます。

当時はデータイムのみの運転で、1時間に1本というダイヤ設定。データイムのみの運転はしばらく継続されていましたが、朝夕のラッシュ時に新快速を運転しようものなら、ダイヤの乱れはとんでもないことになったでしょう。

前述のように、新快速は複々線の内側線を走行するようになりましたが、新快速の他に普通と快速も共用します。当時は京都-大阪間はノンストップだったために、データイムですら要所要所で “妖怪通せんぼジジィ” がノロノロと走っています。今もそうですけど、草津-西明石間の複々線って、追い抜き施設があまりないですよね。思い当たるだけでも高槻、新大阪、大阪、尼崎 (国鉄時代はどうだったか分からないけど) 、芦屋、神戸・・・くらいかな (その後、向日町、茨木、須磨も追い抜きが可能であることが判明) 。普通や快速も新快速に追いつかれないように出来るだけ早くそういった駅まで逃げ切らなければなりません。朝だったら列車本数も多くなるから余計にプレッシャーを感じながら走らなければいけない。そのような理由から、どうしても新快速はデータイムにしか運転出来なかったのです。

これがもし列車線を走行出来たのであれば、そのような心配は不要で、新快速設定当初の本領を発揮出来たでしょうにね。

 

因みに運転開始当初、大阪駅を基準にして初電が下り10時33分 (西明石行き) 、上りが11時13分 (京都行き) で、 終電が下り15時33分 (西明石行き) 、上りが16時17分 (京都行き) でした。今だと2月現在の時刻になってしまいますが、同じ大阪駅基準で下りが6時51分 (大阪発姫路行き) で上りが6時33分 (同じく大阪発米原行き) 。終電は下りが0時25分 (西明石行き) 、上りも0時25分 (京都行き) になります。運転本数は勿論のことですが、初電や終電の時間帯だけ見ても、半世紀前とは隔世の感があります。

 

そして、新快速の使用車両も実は大きな誤算があったんですね。

これも前述した通りですが、新快速の初代専用車両は 「万博号」 に充当したスカ色の113系でした。しかし、周りの私鉄を見てみると、阪急2800系、京阪3000系といったフラッグシップは転換クロスシートを用いた車両でした。しかも京阪3000系にはテレビも付いている。両者とも特急に使用されていましたが、いずれも特急料金は不要。普通運賃ですら国鉄より遥かに安い。これに対して国鉄のメリットは 「速い」 だけで、転換しない直角ボックスシートが配されている113系は普通 (快速) 用の車両と同じ。まぁ、トイレ付きは些かながら113系に軍配が上がるのでしょうけど、どっちにしても阪急2800系や京阪3000系の敵では無かったようです。

 

画像はモノクロですが、湘南色であることが判ります。

昭和46年に運転区間が草津まで延びまして、使用本数が増えたことから、スカ色の他に快速用の湘南色も加わるようになりました。それを境にスカ色も徐々に湘南色に塗り替えられまして、 「須磨海岸の海と砂」 をイメージ・・・していない関西におけるスカ色は短命に終わってしまいます。インパクトはあったと思うんですけどね。

 

劣勢の新快速に転機が訪れるのは昭和47年になってから。

山陽新幹線岡山開業で、それまで新大阪で新幹線に接続していた山陽本線の急行が全廃されまして、余剰になった153系電車を新快速に転用したのです。それについてはここでは触れませんが、新快速のイメージを決定づけるほど、153系のもたらした影響は計り知れないものがありました。

 

新快速に限らず、他の鉄道、鉄道以外のどの分野でも初期トラブルというのは珍しいことではありませんし、それを努力と英知によって克服して盤石のものにする。成功というのはそういうものではないかと思います。新快速も運転開始当初の “失敗” 、あるいは “目算違い” があったから、それを様々な英知やアイデア等で克服して、今日の栄華に繋がっており、気がつけば短命という下馬評を見事に裏切って 「運転開始半世紀」 になったのだと、私は思います。

 

【画像提供】

イ様

【参考文献・引用】

キャンブックス 「関西新快速物語」 (JTBパブリッシング社 刊)

時刻表各号