あんじょうし大岡町に大岡白山神社(おおおかはくさんじんじゃ)っていうおみやさんがある。
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岡崎街道大岡町交差点をきたにはいると、すぐにつきあたったとこに朱ぬりのとりいがある。ようめだつ。とりいをくぐって、境内はまわりより一段たかい位置にある。
境内をすすんで、朱ぬりのなか門と塀。なかなかおもむきがある。
なか門をくぐってすすんで、拝殿におまいり。かわらぶきひらいりで唐破風(からはふ)の向拝(こうはい)がついとるのがとくちょうだ。ねこが番をしとる。
拝殿からおくにわたり殿でつながって、本殿。銅板ぶき流造(ながれづくり)。
本殿の説明がき。
市指定建造物 - 2007年11月みっか指定
大岡白山神社本殿(おおおかはくさんじんじゃほんでん)
〔構造様式:木造ひらやだて/三間社流造(さんげんしゃながれづくり)/銅板ぶき〕
- 大岡白山神社は、718年の創建とつたえられ、はじめ大岡明神(おおおかみょうじん)って称しとったっていいます。1533年に、徳川家康の祖父である松平清康が社殿を造営しましたけど、1540年に織田軍の兵火により焼失したってつたえられております。ほのあと、1567年に家康により再建され、1604年に、社領138石を寄進されております。
- 本殿は、けたゆき3間、はりま2間の三間社流造で、1936年ごろにひわだぶきから銅板ぶきに変更されました。
- じもとの有志により編集された郷土史『大岡の郷』には1567年に家康が再建したさいのむなふだ(むねあげやたてまえのときに、工事のゆいしょ、ねんがっぴ、建築ぬし、または工匠などをしるしてむなぎなどにうちつけるふだ)の存在がしるされております。部材の形状や絵様(えよう)(はりなどにほられとる文様)、はしらのめんとりのしかたなどから、こやぐみややねなど一部をのぞき当時以来のものって判断されます。
- 当初の部材ののこりぐあいからすると、あんじょうし最古のたてもんで、流造の本殿としては、愛知県内で7番めのふるさになります。
- 現在は本殿と拝殿のあいだにわたり殿が増築されてむねつづきとなっておりますけど、建築当初、本殿は独立してたっておりました。
あんじょうし教育委員会
いや、これがあんじょうし最古のたてもんか。718年創建ってのもおどろきのふるさだ。1533年松平清康が社殿を造営。1567年徳川家康が再建。1604年社領138石を寄進。松平清康はあんじょう城主。岡崎にうつってからもあんじょうは父祖の地として尊重されとっただ。
由緒がき。かなり字がかすれとるけど、よめるかぎりによんでみる。
大岡白山神社由緒略記
- 創立=718年9月19日
- 祭神=伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)
- 1872年村社に列◆|1896年郷社に昇格|1533年松平清康祠宇(しう)を◆建し古祠を新築して寄付するも織田氏の兵本祠をやきし◆◆◆◆◆◆烏有に帰す(うゆうにきす)|徳川家康1567年社殿を再◆したてまつる|本神社は天正年間(1573年から1593年)には同社領千◆◆ありた◆|徳川幕府となり大岡村の一祠138石を寄◆◆れた
- 明治以前は高木、北山崎、山崎、別郷、東別所、西別所◆新堀、小望、西島、東島、坂戸、河野、富永、舘、桑子、池端の氏子があって、大祭に飾馬をひきつれ、ふえ、太鼓をならしてみやまいりをしたが、明治維新后しだいに分解せり
明治以前の氏子の範囲のひろさにおどろく。江戸時代中期の碧海郡(へっかいぐん)の地図におとしてみる。
大岡に「高木、北山崎、山崎」をあわせて平貴(ひらき)地区。「別郷、東別所、西別所」で三別(さんべつ)地区。平貴地区と三別地区はあわせて平貴三別地区っていうこともあって、りょうほういまのあんじょう市内にある。「新堀、小望、西島、東島、坂戸、河野、富永、舘、桑子、池端」は旧矢作町(やはぎちょう)の区域で、河野がいまのあんじょう市内にあるほかは、いまの岡崎市内にある。小望(こもう)(※ 地図では「薦生」)や桑子(くわこ)(※ 地図では「桒子」)が、いまの東海道線西岡崎駅の南北にある。
三河三白山の説明がき。
市指定史跡 - 1968年4月ついたち指定
- この神社は大岡郷の鎮守神で、椎根津彦命(しいねつひこのみこと)をまつり、大岡明神と称しておりましたが、1570年代(天正年間)に白山媛神(加賀白山)と大岡忌寸(いみき)(地主神)を合祀し、三河三白山社のひとつにくわえられました。徳川家康の祖父松平清康は出陣にあたり、武運長久を祈願したといわれ、家康も1604年に社領138石を寄進しております。
- 江戸時代には神宮寺がありましたが、明治初期に廃絶し、いまは源覚寺という地名がのこっております。
あんじょうし教育委員会
ここ大岡白山神社におまいりして、松平清康は三河平定をすすめていっとっただ。
〔2020年9月11日訪問〕
2020年10月ふつか、追記。
あんじょうって、1891年に東海道線あんじょうえきができるまではあんじょうとしての統一的な歴史なんかないっておもっとったけど、どうもほじゃないみたいだ。
1500年代のあんじょう松平の時代、あんじょう城があった、いまのあんじょうちょうからきたに上条(じょうじょ)、大岡のへんまで、みなみに桜井のへんまで「あんじょう」っていえる地域があったじゃないかな。いや、いまは岡崎市内になる矢作地区の一部もふくめて、まっとひろい範囲だったかもしれん。
さらにいうと、松平が岡崎に移転せんかったら、わがあんじょうが江戸時代からおおきなまちになっとったのかもしれん。ほのばあい、いまの岡崎市はなくて、あんじょう市内の一区域っていう位置づけになっとったかもしれん。
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(さんこう)
- 上条白山媛神社 - あきひこのいいたいほうだい|2013/06/12
- 安城 (あんじょう)の 歴史 (かめぞう) - あきひこゆめてつどう|2008/12/07
- 安城は 明治に なって できた まちだ。岡崎、西尾、刈谷は いうまでもなく 城下町で あり、知立は 宿場町、碧南は 港町、高浜は 三州瓦の 産地・・・、と それぞれ江戸時代からの 由緒を もっとる。
- それに ひきかえ、安城は 明治に なって 東海道本線 岡崎駅と 刈谷駅との 中間地点の 無人地帯に 駅が できてから 形成された あたらしい まちだ。名鉄を ふくめた 鉄道の 開業年を おう ことで 安城の 歴史を みて みる。
- 1891年 6月 16日が 安城の 誕生日だと すると、いま 117才って ことに なる。名鉄の 駅は 32才の ときに できた わけだが、残念ながら いまだに JRと 線路が つながって おらず、これが 解決すれば 安城が まっと 発展すると おもう。
- 安城市(あんじょうし)/三河三白山神社
- 概要
- 三河三白山というのは、大岡白山神社・上条白山媛神社・桜井神社の総称です。
- 松平清康(松平七代)は、1523年に13才で安城城主となり、三河平定に乗り出しました。清康に従う将兵は、安城譜代といわれる家臣団で、出征中に家族は大岡・上条・桜井の三白山社に、お百度を踏んで武運長久を祈願したといわれます。
- 徳川家康(松平九代)は、1566年に三河守となると、さっそく大岡三白神社の本殿を造営し、ついで1603年に征夷大将軍になると、翌年、安城の代官米津正勝に検地を命じると共に祖父の業績を記念して、三社に社領を寄進し、社殿を造営させました。そのため世にこれを三河国三白山社と呼び、「和漢三才図絵」にも掲載されております。
- 大岡白山神社
- 上条白山媛神社
- 桜井神社
- 概要
*1:1593のまちがいか