皆様こんばんは。 ブログおよびホームページ管理人の神@北見です。

 

今回は昔話&小ネタです。

 

私は1995年頃からキハ58系の撮り潰しを始めました。当時は103系や113系などの撮り潰しも流行っており、一つのブームとなっておりました。この頃は比較的数の多い国鉄型車両で色変えや更新等の工事が精力的に行われており、特に模型化をする際に非常にバリエーションが増えている時代でした。そのため1両1両の撮り潰しを行い模型化の資料にするという趣味分野が生まれていました。

 

現在ではこういった大量製造された国鉄形も終焉を迎えつつあり、数が極端に減ってきているので撮り潰しをするような系列が無くなってきています。またJR化後に製造された系列は1系列大量投入というより用途別に形式が分けられるケースが多く、以前の国鉄型のような面白みは薄れつつあります。今では趣味的に撮り潰しが面白そうなのはキハ40系でしょうか。

 

私がキハ58系の撮り潰しを始めた1995年というと、キハ58系1818両にキハ65 104両を加えた1922両中、795両しか残っていませんでした。この時点で既に1000両以上が廃車されていることになります。そして撮り潰し途中の2000年には422両まで減ってしまいます。キハ58系が脚光を浴びはじめ急行色への塗戻しや「リバイバル」列車が運転されるのはこの頃以降ですが、既に2000年の時点では残存率が22%程度で、既に4分の3は廃車されている状況でした。

 

キハ58系が最も脂が乗っていたのは国鉄時代末期であると思います。急行仕業からは退く車が増えていましたが、亜幹線やローカル線普通列車の体質改善には大きく寄与しました。それまでの冷房のない旧客や20系気動車と比べると、冷房が付いており適度に2エンジン車が入っているキハ58系は普通列車に転用するのに非常に重宝されました。そして1980年代は特別保全工事や各種整備工事が施工されその形態が変わっていった時期でした。冷房化は1970年代で終了してしまいましたが、その後の前面補強、ワイパー更新、特別保全工事など微妙に形態を変える工事はこの時期に一斉に施工されました。そしてダイヤ改正の度に全国を跨いだ車両の転配も行われ、キハ58系趣味的には非常に大事な時期でした。

 

しかしながら、この頃の趣味的な観点でのキハ58系の位置というと、殆ど見向きもされないような状況でした。それはぱっと見同じ車が日本全国を走っていて、以前も書きましたがどこにでもあたりまえのようにいる「空気」のような存在であったからです。

 

鉄道ダイヤ情報誌増刊(1986年12月発行)の「61-11改正 特急・急行オールガイド」という本です。やはり花はブルートレインや特急電車です。もちろん当時幼少の頃の私もブルートレインや特急電車をみると興奮したものでした。この本には急行なんてカラーでは出てきません。

 

そして、幼稚園のころから持っていた私のバイブル本は…

 

ヤマケイの「急行列車」シリーズという超マニアックな本です。東日本編と西日本編と分かれていますが、表紙は165系電車と475系電車で、キハ58系なんで表紙にはなりません。

 

中を見ても…

色々な急行が出てきますが、小学生がこんなの見ても全部同じに見えるのでは??

 

この本が一体どの年齢層をターゲットに発行されたのかは非常に疑問です。私は楽しんで読んでいましたが…。

 

特急と異なり基本的にヘッドマークの付かない急行はまず地味でした。ぱっと見ても何の列車か分かりませんから。

そして電車急行の場合、用途や電源毎に系列が分かれていました。大きく分けて直流用と交直流用は先ほどの表紙にありますが塗装の違いでだいぶイメージが違いますし、直流用はさらに153系列と165系列に分かれました。また房総急行や北陸本線の急行では比較的遅くまでヘッドマークも残っていました。

客車急行の場合は、まず人気の高い機関車牽引列車であることや、20系や旧客を使用するものもあり一定のファン層がいたものと思われます。

それに比べて気動車急行の地味なことと言えば…。四国ではJR化後急行消滅までヘッドマークを付けていましたが、それ以外は基本的にヘッドマーク無しです。「俺昨日『だいせん』を撮ったぜ」と自慢しても、ぱっと見は「だいせん」なのか「丹波」なのか「但馬」なのか分かりません。これによりなかなかカメラを向けられることも無く、いや写真を撮られたとしても華々しい特急や機関車牽引列車の写真の陰に隠れ、陽の目をみることはほとんどなくアルバムで眠ったままでしょう。

 

JR化後は積極的な営業施策から急行へのヘッドマーク取付が行われるようになり、また塗装自体を変更し特定の急行専用車であることをアピールするようになりました。また普通列車用は全国各地で地域別の塗装が採用され、塗装の種類はキハ40系に次ぎ多い系列であったことでしょう。

 

↑末期の急行「丹後」です。廃止直前は急行色&ヘッドマーク無しという飾らない姿から人気を集めました。丹後が廃止になったダイヤ改正は同時に165系の急行「東海」の廃止日と重なり、どちらに行こうか迷った方も多かった事でしょう。しかし国鉄時代はこれが当たり前でした。

 

JR化後はヘッドマークを付ける急行も多くなりました。

↑急行「たかやま」は、JR北海道のような大型のものを貫通幌もしくは幌枠に取り付けるスタイルでした。

 

↑四国では国鉄時代から一貫してヘッドマーク取付が行われており人気がありました。国鉄時代は急行天国でしたし、高松駅へ各方面行きの急行が集まることから、営業案内上も必要性が高かったものと思われます。

 

↑「砂丘」は四国と同じように助手席側の標識灯掛けに引っ掛けるタイプでした。これは快速の「わかとりライナー」「しまねライナー」、のちの「とっとりライナー」「石見ライナー」も同じでした。

 

↑九州では貫通扉にヘッドマーク掛け・受けを装備し、これに装着するものが採用されていました。丸型と台形がありましたが末期は丸しかありませんでした。

 

↑そして北海道宗谷本線の急行群です。「宗谷」「天北」「サロベツ」「利尻」「礼文」に大型の円形ヘッドマークが取り付けられました。中でもこの「天北」は、1988年11月に札幌駅高架化に伴うダイヤ改正でそれまでの14系客車からキハ400系に置き換えられこの円形ヘッドマークが登場しました。しかし翌1989年4月30日をもって天北線は廃止され、なんと6か月しか使われなかった幻のヘッドマークになってしまいました。更に増結のキハ56に「天北」のヘッドマークは貴重でしょう。

 

私は小学生の頃に念願の北海道旅行に行き、まさにこの急行「天北」に乗車しました。キハ400に乗りたがる家族を振り切りこのキハ56に乗った記憶があります。この時点でキハ58系ファンになる素質があったのでしょう。そして札幌近郊の大都会から天北線の荒涼とした風景へ移り行く車窓は当時子供の私の心に深く焼き付きました。天北線は10m短尺レールが使われており、ここを80km/h程で飛ばす急行「天北」キハ56は大変揺れました。気分転換で運転席後ろに行くと、2人乗務でした。当時は天北線はタブレット閉塞でしたので今思えば当然でしょう。折り返しの急行「宗谷」は家族の強い意向でキハ400に乗せられましたが…。

 

そしてこれから約10年後、北海道の住民となった私は久しぶりに天北線の沿線に行きましたが、多くは既に自然に還っておりどこに線路があったのかも判別できません。あの小学生の頃の突き刺さるような思い出の路線は、既に遠く彼方に消え去ってしまいました。

 

いかがでしょうか。何か脈絡のない文章になってしまいましたが、キハ58系はもう殆ど消えてしまいましたが、今でも皆の心に残っていることでしょう。たまには記憶を呼び戻すため、いすみ鉄道にでも行ってみようかな。

 

では皆様次回もお楽しみに!!