西の高原列車・・・・・・旧国鉄宮原線のこと
2020年 09月 24日
「筑豊夜行」から時系列的には続き。撮影はすべて1981年9月5日土曜日。
12:21、日田から40分ほどで豊後森に着いた。台風一過の青空が高い。
周囲を山に囲まれながらも広々とした雰囲気は、中央本線小淵沢駅みたいだ。するとこれから乗る宮原(みやのはる)線は小海線のような路線なのか?想いは膨らむ。
肥後小国行き6225Dに乗り込む。1日わずか3往復しか走らない宮原線だが土曜日だけ豊後森発12:43のこの列車が1往復加わる。旅の途上に宮原線を組み込んで筑豊から阿蘇へ抜けるにはこの列車が最適、というかほかに選択肢はなかった。よって「ひかり143号」での東京出発は金曜日になったのだった。
土曜日のみ運転、ということは半日で終業の学生の帰宅列車であろうことは想像がつく。しかしキハ40単行の6225Dは意外なことに学生服もセーラー服も現れないまま、豊後森を定刻に発車した。もう2学期は始まっているのに…。
不思議に思っていると3つ目の宝泉寺から7,8人の小学生が元気よく乗り込んで…、というより突入してきた。どうやら彼らのためにこの列車は運転されているらしい。放課後の教室のノリの続きが始まった(笑)。
キハは整然と植林された杉林の中をゆっくりゆっくり高度をかせいでゆく。
エンジンの唸りが消え、惰行運転に入ると同時に空が広がった。
そして停まった。豊後森を出て以来、車掌は乗っているけど車内放送はいっさいない。きっぷを拝見、と回っても来ないし、途中駅での集札もしない。けしからん、たるんでる、と言われればそうなのかもしれないが、きっとぼく以外の全員の氏素性を把握しているんだろう。
朽ちかけたホームにあるのは駅名標と蛍光灯1本だけのために立つ木柱のみ。駅に着いた、という感覚すらない豊後森から高度差にして300m余り登った麻生釣(あそづる)駅。
ここで小学生たちは全員下りて行った。やけに身軽な子の後ろにじゃんけんに負けたのかな?2個のランドセルでサンドイッチになった子が続く。
麻生釣を出て間もなく線路は大分・熊本県境を越えた。全長30キロ足らずの盲腸線でありながら途中で県境をまたぐ路線は珍しかったのではないか。しかし現実に列車が走るこの部分は全体のほんの一部で、計画では久大本線と豊肥本線の間を西進して熊本県を横断し、羽犬塚で佐賀線とつながるという壮大なものだった。いまとなっては仮に実現していたとしても到底儲かりそうにないことは瞬時に理解できるのが悲しい。
県境のサミットから高度を下げ、終点肥後小国へ。
改札口で見上げれば大分、久留米、あるいは急行の博多行き、それぞれに何分待ちというリマークが旅情を誘う。
8時27分の列車で急行「由布2号」を待って博多へ向かい新幹線に乗り移れば、夜には東京に着く。あるいは16時42分発から大分へ出て「彗星」のベッドでまどろめば明日朝に大阪…。そんな利用が実際にどれだけあったかは別にして、この終着駅から線路は確かにどこまでも続いていた。
わずか7分で折り返す6226Dを、どこからともなく現れた九州男児とふたりで見送る。
終着駅なのに車止めはなかった。吸い込まれるように消える線路の先で、それを跨ぐためにわざわざ造られた道路橋がこの先へ進みたかった、という意志の儚い証。
駅からすぐに始まる急勾配を登り杉林の中に消えてゆくキハを見届けて小国マダムがふたり、線路づたいにお買い物にお出かけか。
いまもこの線路道は小国のおかあさんたちの生活道路だろうか。
1984年12月、全線廃止。
12:21、日田から40分ほどで豊後森に着いた。台風一過の青空が高い。
周囲を山に囲まれながらも広々とした雰囲気は、中央本線小淵沢駅みたいだ。するとこれから乗る宮原(みやのはる)線は小海線のような路線なのか?想いは膨らむ。
肥後小国行き6225Dに乗り込む。1日わずか3往復しか走らない宮原線だが土曜日だけ豊後森発12:43のこの列車が1往復加わる。旅の途上に宮原線を組み込んで筑豊から阿蘇へ抜けるにはこの列車が最適、というかほかに選択肢はなかった。よって「ひかり143号」での東京出発は金曜日になったのだった。
土曜日のみ運転、ということは半日で終業の学生の帰宅列車であろうことは想像がつく。しかしキハ40単行の6225Dは意外なことに学生服もセーラー服も現れないまま、豊後森を定刻に発車した。もう2学期は始まっているのに…。
不思議に思っていると3つ目の宝泉寺から7,8人の小学生が元気よく乗り込んで…、というより突入してきた。どうやら彼らのためにこの列車は運転されているらしい。放課後の教室のノリの続きが始まった(笑)。
キハは整然と植林された杉林の中をゆっくりゆっくり高度をかせいでゆく。
エンジンの唸りが消え、惰行運転に入ると同時に空が広がった。
そして停まった。豊後森を出て以来、車掌は乗っているけど車内放送はいっさいない。きっぷを拝見、と回っても来ないし、途中駅での集札もしない。けしからん、たるんでる、と言われればそうなのかもしれないが、きっとぼく以外の全員の氏素性を把握しているんだろう。
朽ちかけたホームにあるのは駅名標と蛍光灯1本だけのために立つ木柱のみ。駅に着いた、という感覚すらない豊後森から高度差にして300m余り登った麻生釣(あそづる)駅。
ここで小学生たちは全員下りて行った。やけに身軽な子の後ろにじゃんけんに負けたのかな?2個のランドセルでサンドイッチになった子が続く。
麻生釣を出て間もなく線路は大分・熊本県境を越えた。全長30キロ足らずの盲腸線でありながら途中で県境をまたぐ路線は珍しかったのではないか。しかし現実に列車が走るこの部分は全体のほんの一部で、計画では久大本線と豊肥本線の間を西進して熊本県を横断し、羽犬塚で佐賀線とつながるという壮大なものだった。いまとなっては仮に実現していたとしても到底儲かりそうにないことは瞬時に理解できるのが悲しい。
県境のサミットから高度を下げ、終点肥後小国へ。
改札口で見上げれば大分、久留米、あるいは急行の博多行き、それぞれに何分待ちというリマークが旅情を誘う。
8時27分の列車で急行「由布2号」を待って博多へ向かい新幹線に乗り移れば、夜には東京に着く。あるいは16時42分発から大分へ出て「彗星」のベッドでまどろめば明日朝に大阪…。そんな利用が実際にどれだけあったかは別にして、この終着駅から線路は確かにどこまでも続いていた。
わずか7分で折り返す6226Dを、どこからともなく現れた九州男児とふたりで見送る。
終着駅なのに車止めはなかった。吸い込まれるように消える線路の先で、それを跨ぐためにわざわざ造られた道路橋がこの先へ進みたかった、という意志の儚い証。
駅からすぐに始まる急勾配を登り杉林の中に消えてゆくキハを見届けて小国マダムがふたり、線路づたいにお買い物にお出かけか。
いまもこの線路道は小国のおかあさんたちの生活道路だろうか。
1984年12月、全線廃止。
by hikari143a
| 2020-09-24 23:33
| あのころ本線
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