東急フライヤーズのプロ野球の再建をもさせられる事になった大川だがこれは非常に困難であった。
野球事業は削れる所が限定的であった為だ。
東映では徹底した予算主義と徹底作品中心による大衆路線を採用出来た。
当時は写真の現像費、特にフィルム代はべらぼうに高かった。
圧縮策の例としては、無駄なフィルムを使うと即座に始末書を書かせたと言われている。
これが相当に効果があった。
良い選手を見つけても、契約金をケチろうとすれば他球団へ行ってしまうだろう。
又運営面では試合の遠征である。
この移動費や宿泊費も経営を困難にさせた。
まさか、宿泊費を圧縮する為、野宿なんかしたら蜘蛛の子を散らす様に選手達は逃げてしまうだろう。
そうなったら、面目所が笑い者のネタにされてしまう。
かと言って金に糸目を付けずに良い選手達を獲得した所で優勝出来る程プロ野球は甘いものでは無い。
特に困ったのが球団の人気の無さだ。
東映フライヤーズとなったからには東急に応援を仰ぐ訳にも行かない。
映画と野球だけでも大変なのに東急の筆頭幹部としての職もある為、野球だけ専念する事も叶わなかった。
仲々良い案は浮かばなかった大川だが、「今、出来る事をやろう」と決心した。
それは家族と野球の応援に行く事だった。
ホームグラウンドの駒澤野球場での観客は相変わらず数10人の事もあった。
大川は家族と一緒に大騒ぎをした。
そして東映フライヤーズが勝つと「バンザーイ!」と大はしゃぎした。
しかし、何時までもこんな事をやっている訳には行かなかった。