今回はかなり前に母ちゃんを引率して碓氷鉄道文化むらを訪れたときの振り返り記事です。

 北陸新幹線のうち高崎~長野間が開業して急峻な碓氷峠が介在する群馬県の横川駅と長野県の軽井沢駅間が廃止されて信越本線の関東側の終点駅となった横川駅にて。

 上野駅から高崎線の普通列車に乗って高崎駅で信越本線の普通列車に乗り換えてやってきた横川駅にはJR東日本・高崎支社が運行する快速「SL碓氷」が止まっていました。牽引機はC61 20。
 この並びはまさに国鉄時代を彷彿とさせるものですが、向こう側に停車している「SL碓氷」の12系客車がデビューした頃には蒸気機関車が国鉄線上から急速に撤退していた時期でありました。
 実際のところ、この客車が登場して間もない頃は牽引していたのは電気機関車やディーゼル機関車で蒸気機関車が牽引していたのは旧型客車ばかりだったと思います。
 とはいっても、近年北関東から姿を消した115系との並びは、やはり少年の頃に憧れた国鉄時代の再現といった感じです。


 この12系客車が走り始めた頃はきかんしゃが牽引する客車急行列車はまだ旧型客車が主流で、冷房がついていたのはグリーン車などごく一部、普通車は冷房などありませんでした。
 急行列車でも電車は早くから冷房改造されたりしていましたが、旧型客車急行に乗ったときには夏の暑い日にはこの12系客車を使用した急行列車を羨望のまなざしで眺めたものでした。
 廃止された信越本線の線路跡は遊歩道になっているので歩くことができますが、碓氷峠のうちで比較的勾配が緩くなっている横川駅付近でもけっこうな坂となっています。
 最も勾配が急なところでは66.7‰、国鉄~JRでは全国で最も急勾配だった碓氷峠。

 旧丸山変電所跡。
 かつてアプト式だった頃の遺構で、信越本線の列車の車窓から荒れ果てた建物の様子が見えていましたが、現在では美しく復元されています。ただし中に入ることはできません。
 いかにも明治時代の建造物といったこの建物はアプト式が廃止されて粘着式運転となった昭和38年に役目を終えましたが、新幹線が開業して路線自体が廃止された現在の信越本線・碓氷峠の姿をどのような気持ちで見守っているのでしょうか?


 信越本線の顔役的存在だった189系の運転席。
 横川駅の軽井沢寄りにあった横川運転区が生まれ変わった「碓氷鉄道文化むら」のゲート内に展示されているクハ189-506の運転席です。
 当初はJR東日本となってからグレードアップ編成に始まった長野総合車両所(→長野総合車両センター)所属の189系特急型電車および489系特急型電車に施された「あさま色」なまま展示されていましたが、のちにオリジナルカラーである国鉄特急色に塗り替えられました。


 細部のパーツひとつひとつに昭和を感じます。
 運転席の背面。

 運転台から見下ろします。
 まだ東海道・山陽新幹線が岡山までしか開通していなかった少年時代、全国の主要幹線をカバーしていた特急型電車の高い運転台は憧れでした。


 この車両はグレードアップ改造は行われなかった車両でしたが、非グレードアップ車もシートモケットがグレードアップ編成同様グリーンとブラウンが並ぶものに変更されています。
 グレードアップ編成の指定席車両は窓が上下方向に拡大され、座席部分の床ぎかさ上げされてシートピッチも拡大されてリクライニング角度も大きくなって快適にはなりましたが、シートピッチわ拡大したために窓割りとシートの位置が合わなくなりました。
 また、グリーン車は2+1の3列でゆったりとしたものとなりました。
 しかし、自由席車はシートモケット色が指定席車両と同じものに替えられただけにとどまって指定席車両との差別化が図られました。この手法はJR東日本のグレードアップ改造第一彈として中央本線の特急「あずさ」で運転されていた松本運転所な183系や次いで日本海縦貫線に登場した新潟の上沼垂運転区所属の485系に準じたものでした。
 しかし、カラーリングは183系や485系のグレードアップ編成、金沢や秋田の485系や489系がアイボリーホワイトを基調とした派手なものだったものに比べるとフォギ-グレーとネイビーグリーンを基調として灰色のラインを巻いたシックな姿でした。それが碓氷峠や東信から北信エリアにかけての風景に合っていたと思います。


 形式番号の前に書かれている「・」マークは碓氷峠を通過するための台枠や連結器の強化などの対策が施された車両に付けられていました。そして、形式の末尾「9」は碓氷峠でEF63型電気機関車との協調運転が可能な169系急行型車両、489系特急型車両、189系特急型車両に付されたものです。
 EF63型電気機関車は横川~軽井沢のみで働いていた電気機関車。
 碓氷峠では急勾配であるがゆえに電車の場合では最大8両編成までに制限され、この区間ではEF63型に峠を押し上げられる(峠を下る場合は牽引される)かたちで信越本線の輸送力においてネックとなっていました。
 それがEF63型で電車の力行やブレーキの一括制御を行って協調運転する方式が開発されて最大12両編成まで組める169系急行型電車がデビュー、特急型電車の489系、189系へと技術が応用されました。
 この機関車の軽井沢方に列車が連結されるのですが、スカートにはさまざまな装備が取り付けられており、厳めしい面構えから「峠のシェルパ」と呼ばれていました。


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