先日、阪神の “赤胴車” が惜しまれつつ “卒業” したのは記憶に新しいところですが、もう一つ、関西の私鉄で俄に注目を集めている車両があります。南海の6000系もそうなんですが、今回は阪神とも馴染みがある山陽電鉄の3000系にスポットを当てます。サブタイトルは当初、 「SANYO LEGEND」 にしたんですけど、山陽電鉄というと、駅名表記を 「電鉄兵庫」 としてたように、事ある度に “電鉄” を用いていましたので、急遽、サブタイを “DENTETSU LEGEND” に切り替えました。まぁ、 「何のこっちゃ?」 ですけどね。

 

子どもの頃、山陽3000系を 「菅原洋一に似ている」 って思ったことがありました。おそらくそれを聞いた人は100人が101人とも 「はぁ~っ!? 何でやねんっ!?」 って突っ込まれるのは必至。子どもは時折、素っ頓狂なことを言い、その思考力というのは良い意味で恐ろしいものがありますが、何で 「菅原洋一に似ている」 って思ったのかは今となっては謎のままです。

 

説明するまでも無く、3000系は山陽電鉄を代表する車両です。

3000系登場までの主力は2000系でしたが、神戸高速鉄道を介して阪急や阪神に乗り入れるための車両が必要となるため、ハードからソフトまであらゆる部分で “標準化” を目指した車両ということで登場したのが3000系です。時に1964年のこと。

 

阪急も阪神も神戸高速鉄道が開業する前は電圧が600Vで、山陽電鉄は最初から1500Vの高規格路線で、神戸高速鉄道開業後も2000系が乗り入れる予定でいたことから、複電圧車として設計されていました。しかし、2000系は車体だけでなく、メカニズム的にも多種多様なバリエーションが存在したため、メンテナンスが困難になってきたことと、乗り入れ先でトラブルが発生した場合の対処が難しいこと、そして神戸高速鉄道開業を前提に、阪急も阪神も1500Vに昇圧することを決定したことから、複電圧にする必要が無くなったことなどを受けて、3000系は設計されました。

 

3000系は大きく3つのタイプに分けられます。

一つはオリジナルの3000系、一つは2000系の足回りを流用したグループで3200系と呼ばれ、そしてもう一つは新製当初から冷房装置を取り付けたグループ (3050系) です。さらにアルミ製車体と鋼製車体がありますので、3000系もまた、バリエーションは多岐にわたります。

 

画像の車両はその第一陣 (一次車) になります。

前身の2000系も鋼製車体、アルミ車体、ステンレス車体が存在しましたが、この中からアルミとステンレスを比較検討し、コスパがステンレスよりも優れているという点でアルミ車体を採用しました。

この当時は電鉄兵庫-西代間が併用軌道だったことから、3両編成での落成になりました (1968年に付随車が追加製造されて4両固定となる) 。

 

随所に2000系の思想が盛り込まれましたが、やはり神戸高速鉄道開業を見据えてか、車体長が19mとなりました。乗降扉は両開きとなり、これは山陽電鉄初になります。その神戸高速鉄道開業時に大量増備することになるのですが、その際はコスト的にリーズナブルになる鋼製車体となりました。

前面形状は2000系に準じていますが、踏切事故対策で300mmほど運転台を高くして、窓もそれに合わせたものとなりました。ですから、前面窓の形状が113系や153系といった当時の国鉄の急行形、近郊形に酷似しています。

 

画像をご覧になってもお判りのように、前面の赤いラインは当初は細かったのですが、1986年に現在のような太線 (粘着テープ) に変更されています。また、当初は車体にクリヤラッカーを塗布していました。 「せっかくのアルミ車体なんだから、綺麗に保ちたい」 と考えたかどうかは定かではありませんが、パンタグラフの摺板やブレーキシューの金属粉付着による腐食、そして沿線にあった工場地帯から出る大気で腐食するんじゃないかという懸念があったからと言われていますが、蓋を開ければそのような懸念は杞憂に終わり、逆にクリヤラッカーは年数が経つと色褪せてしまったので、1972年にクリヤラッカーは剥離されました。また、2000系アルミ車でも表現されていた車体側面のウロコ模様も後に廃止されています。

 

さてこの3002編成、竣工は1965年1月なんですけど、同年3月に撮ったものだそうです。まさに出来立てホヤホヤですね。撮影地は東二見と思いきや、西代にあった車両基地で撮ったものだそうです。

よく見ると、妙な違和感を感じずにはいられないんですが、きっと、貫通扉に種別と行く先の方向幕が設置されておらず、車番が書き込まれているからではないかと思われます。車体前面に方向幕が設置されたのは、1968年製造の3次車 (鋼製車体) からで、1、2次車についても後年、追加工事が実施されました。

 

長らく非冷房のままでいましたが、1989年に付随車の3500、3501が冷房化され、同時に編成から抜き取られて3076編成と3078編成に組み込まれました。3両編成に戻った3000編成と3002編成も1990年に冷房化されています。これによって3000系全ての車両が冷房化されたことになります。

 

3000系列の新造は1985年まで継続され、全体の両数は133両になりました。

後継は5000系になるのですが、同時に早くも廃車が始まりました。もっとも、廃車になったのは2000系から編入した3552で、1989年には同じ2000系編入車の3551がそれぞれ役目を終えて廃車になっています。

新造車の淘汰は2010年から始まりましたが、編成単位ではなく、付随車 (3500形) が編成から抜き取られて廃車の憂き目に遭います。

2016年に6000系が登場すると3000系の淘汰は加速することになり、この時初めて編成単位の廃車が発生しています。画像の3002編成がその対象となり、2017年1月に廃車となりました。トップナンバーの3000編成は同年11月に廃車になっていますが、先頭車の3000は現在も東二見の車庫に保存されています。

 

そして2020年現在も6000系による置き換えが進められており、3000系の残党は相次いで戦線から離脱しています。完全淘汰も時間の問題とされていますが、リバイバルカラーに塗り替えられた3030編成は撮っておきたいなとは思います。いつまで残るか分からないけど。

 

 

【画像提供】

ウ様

【参考文献・引用】

ウィキペディア (山陽電鉄3000系)