<ж30ж お茶碗割れちゃった                                                                     マムシ酒>

ж 7 ж 江差

 投稿日時 2010/6/27(日) 午前 8:18  書庫 展望ラウンジ  カテゴリー 旅行

 


 私が始めて北海道へ渡ったのは1985年2月21日。連絡船からまだ夜の明けきらない函館駅の長い通路を通ってホームに降りると札幌へ向かう2本の特急列車が軽やかなアイドリングを響かせていた。手にしているのは北海道ワイド周遊券。自由席であれば特急も乗り放題で、4時間後には札幌に着く事ができる。
 しかし、私が乗ったのは江差線の始発列車上磯行き。華やかな特急列車が旅立ち、静けさの戻った函館駅からひっそりと発車した。
 無人の昔ながらの古びた客車が窓を震わせて走る。始めて体験する2重窓。少し外が見え辛い。
 わずか20分で終点上磯到着。次の列車までの待ち時間1時間30分。小雪舞うどんよりとした夜が完全に明けた。
 上磯からはディーゼルカーの江差行き。木古内で編成の半分が松前行きとなって別れて行く。江差へは2両だけ。
 身軽になった列車は吉堀と神明の間で峠を超えて日本海側へと向かう。どんよりとした空の雲が切れて日が差してきた。新雪をかぶった山の木々がキラキラと輝いてとても綺麗ではあるが北海道らしさは無く、東北の山の中を走っている様である。
 上磯から2時間。峠ではあれほど素晴らしかった天候が日本海側の冬景色に。
 なぜ北海道へ渡って第1訪の地が江差であったのかは記憶にない。本来であればまっすぐに更に北を目指すのであろう。または江差の沖合いには奥尻島が浮かんでおり、そこを目指すべく途中に立ち寄る、という場合もあろうが季節は冬、荒れ狂った日本海を突き進むフェリーに乗る勇気は無い。ただ単に江差に来たかっただけだったのか?とにかく小雪舞う江差駅に足を下ろした。

 江差の歴史は古い。北海道のほとんど全てが明治になるまでアイヌの人々のものだったのに対して、江戸時代初期の1680年頃にはヒバなどの森林伐採とその運び出しの為の拠点として町が作られている。
 この運び出しに使われていたのがいわゆる北前船で、1750年頃からはその主たる輸送品は木材からニシンへと変わっていった。
 ニシン漁は、ニシンが春告魚とも言われるように春先に大挙して海岸に産卵に群来る(くきる)時を狙っての数日間の漁業で、その少ない日数の輸送をもって「主たる」になるのであるから、その賑わいぶりは相当なもので、「江差の春は江戸にもない」と言われる様に、わずかな日数で莫大な富を築いていたのである。
 明治元年、戊辰戦争中に榎本武場の乗った開陽丸が江差沖に座礁。彼の蝦夷共和国の夢が潰えると共に乱獲のせいかニシン漁も下火となり北前船もなくなった。その後新たな輸送手段として国鉄江差線が昭和11年に開通したが、すっかり衰退してしまって細々と漁業を営むだけになってしまった町ではなんとか廃線にならない程度がやっとであった。
 ちなみに函館本線と日本海側の港町を結ぶ鉄道は松前線、瀬棚線、岩内線が有ったが、いずれも北海道内陸部の鉄道が石炭輸送を目的とて明治期に開通したのに比べて歴史は新しく昭和になってからの開業で(岩内線は大正元年開業)そしてすでに廃止になっている。江差線にしても新たな幹線「津軽海峡線」の一部として生き残っているに過ぎず、北海道新幹線開業の暁には…・・。
 江差駅は、あと1kmほど線路を伸ばせば町の中心なのに、というところに有る。江差町は小高い丘の上にありその丘は背後の松前半島分水嶺に続いている。よって鉄道が街中に入っていくには山に登らなければならずそこが精一杯だったのであろう。駅前からくねくねとした道が丘の上へと続いている。
 その道とは別に海岸沿いにまっすぐな立派な道国道228号線が通っている。その道の周りには空き地が多く、そこを通せば丘の下を迂回してその向こうにある港まで鉄路を伸ばせてフェリーの客の便も良かったのではとも考えたが、どう見てもやはりそこは近年になっての埋立地で鉄道開通当事は家々の途切れるところが波打ち際でその様な余裕はなかったのであろう。それにフェリーであるのだから車の客であってそもそも鉄道は利用しない。ちなみにより立派な国道227号線を通ってターミナルまで行くバスが2時間で函館からやって来る。
 さて、まずは海岸の立派な道を歩いて鴎島へ向かう。鴎島は町の目の前に浮かぶ小さな島で、この島のおかげで江差は日本海の荒々しい波を直接受ける事のない港として栄えた。まずはその島に登って町を眺めてみよう、というのである。
 島へは防波堤のようなコンクリートの道を歩いて渡る事ができる。かつてはぽっかりと浮かぶ島であったのであろうか。渡りきる直前に右手海中に瓶子岩があったはず。あれっ?記憶にない。
 島に上がると風が強い。人気は無く雪の上には足跡も無い。だだ茶色の小さな犬が久々の人に嬉しそうに付いて来るだけであった。風のわりのは目の前に広がる日本海の波はさほどでもなく期待していたエサシ(大波という意味のアイヌ語)では無かった。寂しげな町もよく見えたが、その背後の山々は雪にけぶって見えなかった。できれば島を一周しようかと思っていたが、あまりの風の強さに辟易して江差追分記念碑の前まで行って引き返した。

 島を降りると風はおとなしくなり犬とも別れてフェリー乗り場の脇を通って海岸沿いの国道を港の先へ。横山家を一瞥。江戸時代のニシン漁網元の家で、生活用具などが展示されている。
 15分ほど歩いて江差追分会館へ。ここでは郷土資料としてニシン漁の様子や開陽丸の資料なども見られる。が、目玉はやはり大ホールで見られる江差追分。季節によっては生演奏もあるそうだがそれ以外はスライドで江差追分についての云々が上映される。 で、今はそれ以外の時で閑散期の真っ只中の平日。よって客は2~3人。しかも「スライド上映が始まります」と促されて百畳敷大ホールに入ったのは私一人であった。
 たった一人の客に向かって一通り江差追分の説明が終わるとスライドが始まった。チャンカチャンカと流れる民謡に合わせて次々と映し出されるスライドを食い入る様に見ていたが、実はそれは演技。正直言ってあまり民謡に興味の無い私は途中で飽きてしまった。でも途中退場できる雰囲気でない事は明らかだ。
 欠伸をかみ殺しつつ見ていると一つ気づいたことがあった。それは江差追分はソーラン節とは違うという事。ここまで民謡に知識が無いとは恥ずかしい事だが、ソーラン節にはちょっと偏見を持っていてそれと混同していたのである。
 ソーラン節への偏見とは、この唄はニシン漁の時に歌わされたものである、というその発祥に由来する事。ニシン漁は先にも書いた様にニシンが群来た時の数日間が勝負でその間は不眠不休の労働となる。もちろん働くのは網元に雇われた人達で、その人達を眠らせない為に唄わせた唄がソーラン節だというのである。この過酷な労働で命を落とした人も多く、そして巨万の富を得たのは唄わせた網元である。つまり資本家による労働者からの搾取の唄だったのである。だから今多くの場所で演じられているヨサコイソーラン節も好きではない。ヨサコイソーラン節自体の発祥には良い話があるそうだが、その元になっているソーラン節について踊っている若い人達は知っているのであろうか。
 さて、江差追分であるが、江差がその昔ニシンで栄えたという事からすっかり勘違いしていたが、元々は長野県の信濃追分であってそれが北前船によって伝えられ、アイヌ民謡とも融合した、この地に入った人達の気持ちを唄たったものであった。
 新天地を求めて故郷を離れた人達の気持ちなどを考えながらふともう一つ気になる事があった。それは終わったら拍手しようかどうしようか、という事。一人きりなので寂しくパチパチもなんだし、わざわざ一人の為に上映してくれているのにそのまま出て行くのもなんだし、と思っているうちにスライドが終わって場内が明るくなった。結局何もせずに出て来た外はまさに身が引き締まる様に寒かった。
 さて次に訪れたのが中村家。こちらは網元ではなく回船問屋を営んでいた人の家で明治期の物。国の重要文化財でもある。内部には横山家同様にニシン漁の資料や生活用具が展示されているが、細長く続く家の中の通路が外の道と同様に坂になっているのが面白い。一番下の建物は今ではバイパスに面していてそちらが表の様にも見えるが、かつては旧道に面した坂の上の入り口から入り室内の坂を下って一番下の建物を抜けるとそこは浜だったそうである。

 中村家からは町の中心に向かって坂を登る。その途中にあるのが法華寺。本堂に池大雅作と言われる「八方にらみの竜」の天井画がある。
 北海道らしい二重になっている玄関(という言い方でいいのかな?)から本堂へ入ると少々暗くて解りにくくはあるが立派な竜が天井に。
 池大雅(1723~1776)は江戸時代中期の京都の画家で、芸術を愛した松前藩主の弟に招かれて描いたとか。八方にらみという事で本堂のあちこちへ移動して眺め、真下に座り込んで眺め、と堪能。先程と同じ畳の上での観賞となったが近代的な設備での畳よりやはりこの様な畳の上での観賞の方が良い。しかし、暖房が効いていないので足先がすっかり冷えてしまった。
 法華寺を後にして町の一番高台にある文化センターへ。ここには江差町郷土資料館がある。展示の中心は開陽丸から引き上げられた道具や砲弾など。
 もし開陽丸が江差で沈まなければこの町はどの様になっていたのであろう。旧幕府軍の勢力が強いままでこの地も戦火に巻き込まれて今日見て来たもののうちの大半は残っていなかったかも。北海道でありながらその歴史ゆえ東北の町を訪ねているようなこの雰囲気は無くなっていたかもしれない、などと考えながら坂を降りると江差駅に戻っていた。この後は函館に戻って夜行鈍行に乗り塩屋から少し戻って岩内より雷電海岸を通って寿都より黒松内。そこから急行「ニセコ」に乗って念願の札幌につくのは明日の夕方である。 



--第30号(平成18年10月1日)--

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 コメント(4)

 

 

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廃止された松前線のほうが収支はマシだったそうですね。
(木古内以遠だけの線名だったのであっさり廃止されてしまったとか・・)

海峡線から外れる末端区間、未だに未乗・・  
2010/6/28(月) 午後 0:12  哲ちゃん+Mc169
 
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哲ちゃん+Mc169 さん
私は松前線に乗らずじまいになってしまいました。
この時木古内からとんぼ帰りが可能だったのになぜ行かなかったのかな―。(涙)  
2010/6/28(月) 午後 7:28  NEKOTETU
 
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江差は国鉄時代とJR後しばらくしてから行きましたが。
終端の線路はすっかり片付けられてしまいシラケた感じでした(泣)
一応歴史好きなので開陽丸の復元は見に行きましたよ。  
2010/6/28(月) 午後 9:49  LUN
 
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LUNさん
時間だけはゆとりを持って使えた青春時代。
その思い出に再訪しても線路一本ですか。
その一本も無くなる前に行ってみたいですが時間も旅費も(涙)  
2010/6/29(火) 午後 6:32  NEKOTETU

 

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[ 線路巡礼♪ ]                                            

投稿日時 2010/6/28(月) 午後 9:50
線路巡礼:松前線、江差線(悲劇の松前線)

線路巡礼:松前線。江差線。 1980年第1次北海道線路巡礼にて。 そーです。だから写真がないんです(泣) 
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函館9:30→江差11:31(急行)えさし1号 江差12:16→木古内13:18(急行)えさし4号 木古内14:29→松前15:52 松前17:02→函館19:10(急行)松前4号 
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 この時は両線とも終着駅でノンビリしています。 江差駅では海岸まで歩いてみたし。 松前駅では松前城まで歩