本日の本社研修、無事に終了しました。

この記事は、現実逃避の為の
電車の写真と記事だらけですので
ご興味の無い方は、
遠慮なくスルーくださいませ…。



昨夜も多分、夜も横になってるだけで
身体も脳も、休めていないんでしょうか…

朝がとにかく、つらい。
もしかしたら、眠剤が多すぎるのか???

研修中、とにかく眠くて眠くて???
心ここに非ず。
話の中身なんて、全く入ってきません。

入社後1ヶ月研修やったんですが…
この1ヶ月間の公私にわたる?私事に踏み込む?
アンケートみたいなのがありまして…

余計に気が滅入る始末。



そんな今日は、
久しぶりに電車で西梅田まで出掛けましたので、
敢えて私自身の童心に帰って、
自らを振り返って見ようと
ふと思いました。

先ずは、身近な最寄り駅から
阪急大阪梅田駅まで行くために
お世話になったのが、こちら…。


思い出深い6000系トップナンバーでした。


(6号線から神戸線7〜9号線を望む)

ちなみに、探してみたところ…


私が中学時代の、
『春の大運転』で、臨時特急宝塚行きとして
阪急梅田駅に入線する
6000系トップナンバーの姿が…。

当時の春の臨時特急の停車駅は、
十三、石橋(現在の石橋阪大前)だけでした。

初詣臨時特急になると、
中山や清荒神など停車駅が増えました。


こちらは、高校時代に
既に臨時特急や急行は、
行き先板使用の電車が
なかなか見られなくなっていた時代に、

宝塚駅から一つ梅田駅側にある
清荒神駅にて撮影した
貴重な3000系更新改造前の
臨時特急の1枚。

改めて、
研修帰りにの阪急大阪梅田駅にて…



現在の阪急電鉄の1番の花形となる、
京都線特急系統に特化した
9300系電車。

iPhone11での撮影も、
やはり限界がありますね…。
やはり、スマホはスマホなりの写りです。


私が物心付いて、
必死に阪急電車を幼稚園に入る前から
毎週末、父に連れられて追っかけしていました。

その頃の京都線特急は、


2扉時代の2800系の京都線特急。

この写真はネットからお借りいたしました。

この当時、
写真左には、京都から来た各駅停車が
十三駅折り返し用の
今は無き、十三駅7号線が残っていました。

後に、(新設)梅田駅の完成にに伴い
十三駅の京都線ホームは、
7号線の敷地をほぼ丸ごと埋めて
京都線線路も旧7号線側に移設され、

宝塚線との共用ホームだった
4〜5号線ホームの拡幅に至ります。


3扉改造され急行に入る2800系。
昭和55〜56年ごろ。十三駅にて。


昭和58年ごろ。中津駅にて。

私が3、4歳で物心が付き始めた頃には
すでに
6300系の登場により、

順次2800系の各編成が特急の座から追われて
3扉改造と平行して、
急行に格下げされて行く時代でした…。

そして、京都線特急にだけ許されたのが、
伝統の『特急』2枚看板。


昭和63年10月9日…烏丸駅にて。
5300系による代走2枚看板『特急』…

私自身には、2枚看板特急は
我が目で記録と記憶する
これが最後の姿になりました。



ちなみに、
2800系以前の特急電車の、
最後の勇姿が、春と秋に見ることが出来た
2300系の嵐山線直通の6連臨時急行。


さくら急行、の写真ですが…
もみじ急行、の写真が見当たりません。


宝塚線、京都線と来れば
残すは神戸線…


昭和62年8月28日…梅田駅9号線にて。
山陽電鉄『須磨浦公園』行きの、6連特急。


昭和58年ごろ…同じく梅田駅9号線にて。
特急の看板が、旧式です。

この写真にはヘッドライト上に
パンタグラフが見えませんが、
新製デビューしてから後々、
パンタグラフが後付けされていることが良く分かります。

子供の頃は、
そこまで気が付きませんでした。


こちらは、
神戸線所属時代の6連から8連化の上で、
宝塚線に転属後の姿です。

平成2年2月12日…

宝塚線の終点、宝塚駅(ファミリーランド前)が
地上駅の原型最後の姿の、5132編成。

今では、当時を振り返ることも難しいくらい、
宝塚駅周辺は大きく変貌してしまい
宝塚ファミリーランドも無くなりました。

この当時、
既に宝塚駅の高架駅化が決まってまして、
写真右側に
既に仮設ホームに併せるための
仮設線路の工事が始まりだした頃の1枚になります。




この写真はネットからお借りいたしました。

現在の5100系、5132編成は4連となり
(他の4連との増結も可能)
宝塚線の支線である
箕面線メインで細々と
最後の活躍をしております。

8連の5100系も、微妙な編成替えを
繰り返しながら、
宝塚線で活躍しております。



この写真は、
神戸線の旧西宮北口駅の構内踏切からの1枚。

高速鉄道の交差点(ダイヤモンドクロス)が、
間もなく駅の大改造にて、
無くなってしまう頃の写真です。

神戸本線と今津線が、
ホーム位置が互い違いになっていたり
駅構内に踏切もあり、
乗り換えや改札を出入りするにも
地下通路迷宮の様な駅でした。



私自身には、小学3年に入ってから
時々、親からカメラを借りて
とにかく阪急電車を追い続けていました。

小学5年?6年?には、
両親に頼み込み、
今は規格すらない一般的な35mmフィルムよりも
コンパクトでカードリッジタイプの110フィルムの
ポケットカメラを買ってもらいまして、

当時の小遣いは、ひたすら写真の現像代と
撮影の為の電車賃でした。

あと、買い物帰りや
学校帰りの昼間に…

梅田から十三駅の間で、
あっ、今日はこの番号、この形式が、
珍しい列車の運用に入ってることを見つけると、

大至急、帰宅してカメラを持って
再び、その列車が折り返して来る時刻を
計算しながら撮影した写真も
この記事だけでも何枚もあります。

特に、各線の看板特急は…
本当に自ら記録に残すラストチャンスな
時代でしたから…。

メインは阪急電車でしたが、
自転車で行ける範囲であれば、
国鉄大阪駅、新大阪駅や、
国鉄も阪急も淀川橋梁、神崎川橋梁やら
あちこち、撮影に行きました。

そんなこんなで、
高校1年にして
一眼レフカメラデビューを果たしまして…


今では、プロ写真家も利用者が多い
キヤノンの最低限度の機材をメインに
所有しています。
活躍の出番が少ないんですが…



無念にも亡くなってしまった息子には、
どんな趣味があったんやろか…

当時の私の様に
ここまで填まることが出来る、
趣味や目標があったんやろか…


良い友達に恵まれたのか?
好きな教科は何やったのか?
どんな曲や歌手が好きやったのか?
楽器にも興味があったんやろか?


直接、聞いてみたいことだらけでして
頭の中に、ふつふつと
色んな思いが湧いて来ます。


結局、会わしてはもらえませんでしたが
中学生の上の息子には、
亡き弟の分まで
しっかり強く、そしてしなやかに、
生き抜いていって欲しいんですが…

元嫁にも義実家一族にも、
忘れていた恨みみたいなものまで
改めて思い出されて、

仕方ないとは分かっていても、
怒りの感情しか無いのが
正直な今の醜い私です。