民鉄の覇者 東京急行電鉄 58、「東急フライヤーズ」 | 犬と楽器と鉄道模型

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さて、五島が「社員達の一致団結を図ろう」と野球チーム・セネタースを買収した。
1946年の事である。

この野球チームを「東急フライヤーズ」と命名した。
1949年のパシフィック・リーグ(以下「パ・リーグ」)創設になり、「東急フライヤーズ」もプロ野球チームとなった。

そして他の民鉄同様、自社線である玉川線の駒澤に球場を拵えた。
しかし・・・
「東急フライヤーズ」は全く人気が無かった。

ホームグラウンドである駒澤野球場の観客は数10人の事もあった。
又、全く採算が取れない上、赤字の額が多き過ぎた。

このプロ野球チームの経営の難しさは映画とは更に別だった。
プロ野球チームが発足と言う事もあり、当時は他のチームも黒字は南無だったのである。

五島にはこの野球事業がどう考えても軌道に乗るとはとても思えなかった。
当時、東急としては資金需要が多く野球に莫大な資金を廻す訳には行かない。

もう阪急の小林の顔色を伺っている余裕は無かった。
となると身売りである。

経営先駆者は初物にも手を出すが、芳しくなければ手を引くのも早かった。
1948年には既に球団を手放すつもりでいた。

この時、「東急が球団を手放したがっている」と言う情報を得た永田雅一(大映映画社長)は東急ベースボール倶楽部社長の猿丸元に球団買収を申し入れる。


猿丸は東急本社の役員会議で了承を得ようとしたが、大川が反対したのである。
その為、売却話は流れてしまった。

大川が反対したのは球団経営に関わっている事もあったが、初代パシフィック・リーグ会長職にあったからである。

大川は五島に呼ばれた。