鉄分濃いめ 戦争に翻弄される鉄道間連絡線② 代田連絡線/登戸連絡線/厚木連絡線+蒲田連絡線、等 | 湘南陽光電しゃ館 鉄道館

湘南陽光電しゃ館 鉄道館

ヤフーブログから引っ越してきました!
よろしくお願いいたします。
現役時代に撮りためた鉄道写真に
鉄道関連if私想小説をモチーフにした
模型鉄がメインのブログです。
どうぞお楽しみくださいませ!!。

1週間経ってしまいましたが、お約束ですので②を掲載いたします。

まずは、小田急と南武鉄道間に敷かれた、登戸(宿河原)連絡線です。

 

1941/07/08陸軍撮影 登戸

写真上部に写っている川が多摩川で真ん中に小田急の鉄橋が架かっています。

川の右岸に沿って走っているのが、南武鉄道※現南武線、鉄橋を延長して西へとカーブしていくのが小田急小田原線です。

写真左端に西から南に斜めに走っているのが二ヶ領用水と平行して府中県道です。

二ヶ領用水と小田急線の交点の右側に向ヶ丘遊園駅が見えます。

南武鉄道と小田急の乗換駅は昔も今も登戸※小田急側は当時、稲田登戸駅、ですが南武鉄道の方が認可も敷設も早かったため小田急はオーバークロスで立体交差、従って連絡線は向ヶ丘遊園駅と南武登戸駅構内外れ川崎側の間に敷かれています。

南武鉄道には現在でも線路跡が大きな円弧をを描いて市道として残る、宿河原砂利取り支線がありましたので、貨物扱い施設の大きな宿河原駅との連絡線として記されている文献もあります。

拡大してみました↓。

1941年には写真の通り敷設されていましたので、軍用連絡線というわけでは無く、両社とも経営の柱の一つであった川砂利貨車のやりとりや一部小田急側からのイベント列車の乗り入れに使用されてもいたようですが、東海道線が敵の艦砲射撃※相模湾まで敵艦隊に侵入された時点で終わりだと思いますが、や空襲で破壊されたときに茅ヶ崎駅分岐、旧相模鉄道※現相模線、小田急厚木駅を介してか、もしくは戦時中には未完に終わった御殿場線松田駅経由、小田急新松田駅からの列車を南武鉄道登戸(宿河原駅)経由で京浜/城西地区へ列車を迂回させて運転するための帝都アクセス東側のルート出口として、事前に軍の内示で敷設された可能性も大きいと思われます。

 

1948/01/11撮影 米軍撮影

しかし、米軍の航空カメラのレンズ解像度とコダックの航空写真用フィルムの解像度は素晴らしいですね~。

拡大しなくても連絡線線路が確認できます。

一応、電化もされていたようで戦時中には小田急/南武鉄道間で車両の貸し借り及び南武鉄道車の他線への転出が行われていたようです。

戦後は貨物列車をC12が牽いて向ヶ丘遊園まで乗り入れていたようです。

ちなみに米軍の写真を拡大しますと、遊園モノレールの前身、豆汽車の休止線路が向ヶ丘遊園駅東口から二ヶ領用水を鉄橋で渡って遊園入り口まで走っているのがわかります。

次は、小田急厚木/旧相模鉄道※現相模線、河原口間連絡線です。

 

1946/3/19米軍撮影 海老名

こちらの線路は1937年には敷設がなされていたようです。

東海道線迂回軍用連絡線としての性格が強い連絡線と思われます。

なぜかというと、小田急/旧相模鉄道とも砂利採取/販売の経営にはすでに自前の採取専用線と搬出販売駅、小田急では座間/東北沢と南新宿、旧相模鉄道は河原口周辺相模川左岸※現厚木/茅ヶ崎/橋本、関連の神中鉄道は中新田/保土ケ谷、と省線への貨車連絡運輸点を持っていたわけで、新たに連絡線を敷設する必要は無かったからです。

ただ、小田急だけは座間の砂利採取線用軽便線が相武台へ移転してきた陸軍士官学校用地に接収されてしまい、線路を廃止せざるを得なくなってしまい、戦後は河川鉱区から相模線を介しての連絡運輸で東北沢への輸送を行わざるを得なくなって、そのためにこの旧相模鉄道連絡線が活用されたようです。

写真は戦前の公開写真が無いので戦後米軍撮影の写真となります。交点が現在の厚木駅でオリンピック需要が終わる1964年の相模川砂利採取禁止まで活況を呈したようですから、連絡線に敷かれた線路も途中ヤードを介した複線以上、相模線河原口駅※現厚木駅の構内外にもたくさんの仕分け線と留置線が見られ、貨車も多く留置されているのが、拡大写真↓からもよくわかります。

上の拡大写真左下へは相模川の鉱区へ繋がる支線路とナベトロ軽便線の線路が投網を投げたように延びています。

次は東海道線迂回軍用連絡線の西口、御殿場線松田連絡線です。

 

1947/10/22 松田

これが完成していれば、戦時中に東海道線迂回軍用連絡線は全ての結束点で一応完成を見ていたはずですが、戦況悪化で1944年に築堤と公道上にかかるガーダー橋脚の完成を見ただけで工事中止。

以後、1955年に小田急が観光列車の御殿場線乗り入れを見すえて凍結されていたこの連絡線を完成させるまで放置されたままでした。

写真↓は当時非電化路線だった御殿場線に連絡急行を走らせるためにあえて新造したキハ5000型気動車、の晩年の姿、関鉄常総線キハ705。

 

松田駅には現在でも地元企業が設立した砂利取り会社が使用していたホッパーの跡が残っていまして、そのホッパーに接続していた採取線が写真上左側にある松田駅から川へと延びています。

小田急の砂利取りは主に相模川を主とした鉱区で行われていたようですが、ここ新松田駅からも四十八瀬川へ砂利取り線が延びていたようで本線沿いに鉄橋袂まで側線が延びており、数両の貨車が写っています。

さて、一応、東海道線迂回軍用連絡線に関連する軍用連絡線関係はひとまず終わりにします。

で、オマケとしてあと少し、述べてみたいと思います。

まずはコレ↓。

 

1947/09/08米軍撮影 蒲田

写真上中央に白くなっている場所があると思いますが、これがヤードです。貨車が何両もヤードに停まっているのがわかります。

羽田飛行場までは京浜線内も含め、蒸気機関車牽引で走ったそうです。ちなみに南北に斜めに横切る道路は国道1号線です。

川崎市街地では緊急滑走路として使用できるように施工されていたそうですが、都内区間でも同様の仕様でこの区間は広くまっすぐですね。

で、この線は戦後、米軍が進駐して羽田飛行場※現羽田空港、を接収した後で、飛行場を拡張しつつ人貨物資の国鉄線への直接輸送をもくろんで、国鉄蒲田駅と京浜蒲田駅間の経路にあった人家を立ち退かせ、元街路を拡張して無理くり蒲田駅まで線路を敷設、併せて京浜穴守線※現空港線、糀谷駅手前の上り線に三線軌条を敷設して飛行場内まで線路を引き込みました↓。

空港線の地下化まで、蝦取川に架かっていたガーダー橋の先、現空港内までまっすぐ線路が延びているのが空撮写真からもわかります。

現A滑走路は埋め立て造成中、B滑走路もなく旧ターミナルのあったあたりに滑走路と屋根迷彩が施された格納庫が見えます。

穴守線開通時から開戦前まで、蝦取川を渡ってすぐに線路は左に曲がり少し北上して穴守稲荷駅が設けられていました。

この羽田連絡線もある意味、軍用引き込み線と言っても良いのではと思い取り上げました。

そしてあと一つ、これもそうだと思われる連絡線を・・・。

南武鉄道向河原と当時、東洋一の大操車場と言われた、新鶴見操車場間に敷かれた市ノ坪連絡線です。

 

1936/06/11陸軍撮影 鹿島田

陸軍撮影画像ですのでちょっとわかりにくいのですが・・・。

中央下に写っているのが新鶴見機関区の北側にある出発待機線、これは現在でも存在していて金ちゃんがコンテナを牽いて待機している場所です。

操車場をオーバークロスする道は二本とも現存、当時とも新鶴見操車場を乗り越えている道です。

太く斜めに横切る道の少し北側に下り貨物線脇に小さな建屋?があり、南武鉄道※現南武線、側へ分岐していくいかにも連絡線と言えるような線形の連絡線が見えます。

写真上右端にある白い場所は日立製作所の敷地だそうです。

開戦直後から南武鉄道も神中鉄道や旧相模鉄道のように沿線に軍需関連企業の工場進出が相次ぎます。三菱重工、富士電機、日立製作所、日本電気等々・・。

例を言うと南武鉄道武蔵溝口駅周辺には電機関連企業が複数進出したために、二子玉川園駅※現二子玉川、から二子橋を道路併用で渡り南武鉄道武蔵溝口駅※現武蔵溝の口、まで線路延長済みだった玉電の線路と軌道敷を、軍命令で数日で改軌して大井町線電車を直接、二子玉川園駅から乗り入れさせ、増加の一途をたどる工員輸送に供したほどです。

 

1941/07/08陸軍撮影 二子玉川

上の写真では大井町線の二子玉川園駅は玉電駅に対して直角に突き当たっていて玉電が二子橋へと単線で繋がっています。

1944/10/15〃

この↑写真では大井町線が旧駅手前で左にカーブして緩い円弧の途中に駅が移動しており、そのまま二子橋へと繋がって行きます。

本題に戻ります、ただし、この市ノ坪連絡線は南武鉄道側が敷設当時から※新鶴見操車場開場は南武鉄道開通年次の1年前の1926年、省線貨物列車の一大結束点である新鶴見操車場と直接、貨車のやりとりが行えるように最初からもくろんだ意図の方か大きかったのではと思います。

現に当時発行された「南武鉄道沿線案内」図には支線として川崎河岸線とともに記載されています。

それと写真の右下にある大きな円を描いた田んぼの外周には、これも砂利取り線が敷設されていたようです。

1934年以降、二子橋以南の砂利取りが禁止されますので、写真には線路は写っておらず撤去されたようですが。

鹿島田の駅から無理くり川まで線路を敷設するために、ずいぶんと大きく円弧を描かせたものだと感心してしまいますが、宿河原の砂利取り線も同様の大円弧を描いて河岸に到達していますので、さもありなんでしょうか。

大円弧のすぐ上、道路と鉄道の交点は平間駅、それで市ノ坪連絡線の南武線側の駅は向河原駅ですが、このちょうど真ん中に1945年に廃止となってしまった武蔵中丸子駅が小さく写っているのも見所です。

なにせ、南武鉄道の設立時の社名は「多摩川砂利鉄道」ですから・・・。