現在、山北鉄道公園に置かれているD5270号機の炭水車の上に大きなコンプレッサが置かれています。
しかしこの蒸気機関車、以前より艶やかになったように見えます。製造から76年(1944年製造)、引退から52年(1968年御殿場線無煙化)経ちますが、コンプレッサを載せていない写真は2005年に撮影した同機の写真です。
左が2005年、右側が2020年D5270号機です。不自然な艶から、鋳鉄色の重厚な色合いに戻りました。
御殿場線での蒸気機関車列車1968年6月30日を以って廃止され、引退後は静岡・神奈川県内に70・72・136・138・403号機が静態保存されており、何れも静態保存機として公園で公開されており、70号機1970年7月山北鉄道公園開設とともに静態保存されました。
御殿場線東海道本線であった頃、山北駅では国府津方面から沼津方面へ向かう下り列車に補機を連結する作業が行われ、その補機の機関区(山北機関区)が駅構内に設置されていました
東海道本線が開通するまで何もなかった山間の集落は東海道本線で重要な駅を擁する町となり、活況を呈するようになりました大正から昭和初期にかけての最盛期にはおよそ650人もの職員が駅や機関区などで働いていたと言われています。

現在でも山北駅構内には長大なホームが残っています。かつての東海道本線時代の名残りで、側線も電留線として72系電車が引退した時には疎開留置されたこともありましたが、いまでは草むした側線に。まさに『兵どもが夢のあと』とばかりの構内となっています。
御殿場線2537G
313系V3編成
クモハ313-3003+クハ313-3003
山北
2019年8月7日
東海道本線時代は複線で当時は"東の箱根、西のセノハチ"と言われた東西交通の難所も、1934年に旦那トンネル開通後は支線となり、1943年には不要不急路線に指定されて単線化、鉄橋やレールは撤去回収された。既に単線化されて四半世紀経過しますが大半の用地はそのままで写真の左側にかつての複線時代の面影をのこしている。
D5270号機は静態保存機として置かれていたものの、引退から一貫して国鉄職員OBを中心とした保存会"山北鉄道公園保存会"の方々により、現役当時と変わらず油で磨き上げられていたのです。
保存会の活動は長く、いつしか現役より山北での保存期間の方が長くなってもコンディションは維持されました。
動態保存また動いてもらいたいーという強い想いを圧縮空気による蒸気機関車の動態保存の手法を確立した恒松に伝えられます。同氏は元国鉄蒸気機関車運転士で、勤務先の機関区に隣接する国鉄長野工場への熱心な訪問学習で構造や修復に関する知識習得をされた方で、同氏曰くSLは熱効率では最悪(僅か7%)といわれるが、機械効率では非常に優秀なのである。平坦な短区間ならわずかな圧縮空気でも簡単に動いてしまう』のです。
この手法での動態保存について、保存会の同意はすぐに得られました。地元山北町も実現を目指して動き出します。山北町議会は超党派全会一致でプロジェクトを承認し、国の地方創生資金活用を前提として異例の速さでプロジェクトが進行していきます。

整水缶と発電機(2基)
引退時の装備品はそのままに山北鉄道公園へ搬入されている。それ自体は珍しくないが、現役当時のまま生き続けている機体は動態保存機を除けば珍しい。

2016年の鉄道記念日。ついにD5270号機48年ぶりに動き出しました。写真前に見える、わずか12mですが、新たに展示軌道の延伸が行われました。
将来の保守と本線としての耐久性を考えて、最新式の鉄道総研式ラダー軌道が採用されています。
しかし、動態保存に大きな原動力となっていた恒松氏がこの直後、不慮の事故により還らぬひととなってしまいました。
恒松氏亡き後、この機関車の窮地を救ったのは山北町鳥取県若桜町の連携でした。
若桜町は、同地を走る若桜鉄道C12蒸気機関車を使用した動態保存を計画しており、山北町はこのとき運転維持管理支援要請を行い、若桜鉄道で運輸課長を務めていた谷口剛史氏が後継者として整備や定期展示運転を引き継ぐこととなりました。
現在では、圧縮空気という簡易手法による動態化として全国から注目が集まりました。かつて東海道本線箱根越えの拠点駅として大規模機関区を有した威信を語り継ぐべく鉄道資料館の設置も計画され、地元でも軌道延伸の資金確保を目指す「山北町鉄道公園D52線路延伸協議会」も立ち上げられます。山北町は全国からふるさと納税などで保存運転のプロジェクトを計画しています。

この蒸気機関車の主治医である恒松氏の死を乗り越え、先ずは軌道延伸を実現すべく活発に活動しています。