D52 70号機は1944年4月、川崎車輌兵庫工場で新製、製造番号は2974、新製配置は下関機関区でした。1944年5月より使用され、東海道・山陽本線(沼津ー下関間)での貨物輸送に充当されます。軍需物資のほか当時の主要エネルギーである石炭が主な荷物でした。D52は性能試験の結果に基づいて一般貨物列車が19 km/hで1100 t、石炭列車が17 km/hで1200 t運転に設定され東海道・山陽本線に於いては10 ‰勾配で1100 t、石炭列車は1200 tの列車を牽引するようになりますが、大戦末期から終戦前後にかけての車輌・線路の保守状況や炭質の低下のため列車の運行が乱れため、D51形と同じ1000 ㌧のに変更され、終戦直後の1945年10月には牽引定数が見直されて10 ‰勾配における牽引トン数が本形式・D51形ともに900トまで引き下げられました。
戦時設計とは云え性能を確保しての大量生産を達成できたのも耐用年数を僅か2〜3年として製造したためで終戦を迎え極度に資材、生産力が欠乏した日本の状況に於いて耐用年数に達したD52は廃車することができず、引続き使用さざるを得ない状況でした。

そこでD52のほかD51などの戦時設計車通常設計への復元工事を施工することとなりました。

まず除煙板や炭庫など木部の鋼製化が実施されます。戦時設計機関車装備改造として1947年〜1948年度にかけてボイラー控の改造、シリンダー安全弁の設置、速度計の設置、炭水車の補強などが施工され、1949年度以降も補修や原設計への復元が継続されていきます。続発したボイラー爆発事故の原因とされるボイラー控の不備は、ボイラーの火室外板と外火室後板の間の後隅板控戦時設計においては板厚を薄くしてリベット組立から溶接組立としていたことにより亀裂の発生や溶接部の剥離が発生したため、戦時設計機関車装備改造で原設計に復元されました。


原設計ではねじ組立であった火室外板と内火室板の間の側控は、戦時設計においては溶接組立としていましたが、こちらも溶接部の剥離が発生したため、同じく戦時設計機関車装備改造原設計に復元されています。

ボイラー缶胴の周継手リベット1列とした乙缶経年により缶胴下半部のリベットに緩みが生じたものが多く、缶胴下半部に板を継足して継手をリベット2列に補強しています。


動輪とエアコンプレッサ廻り

走行装置においては、弁装置のリンク装置で黒皮付きのままの鋳鋼部品を使用したもの傷の発見が困難であったり曲損の検査に手数を要するため、原設計の鍛造機械仕上のものに交換されています。これによりパーツによるエア漏れ・水漏れ・油漏れを防ぎ突発故障を抑制する事が出来ました。
また、戦時設計によりタイヤの抜出し防止用の止輪が廃止されたが、実際にはタイヤの抜出しが発生、止輪の必要性が再確認され1952年に止輪を追加しています。


戦時設計機関車装備改造における炭水車の補強は、前後の台枠鋳物と水タンク底板との取付部の緩みや、水タンク底板の台枠鋳物取付部の亀裂発生に対応するもので、台枠鋳物の取付面積を増大して衝撃荷重の伝達を良好にするとともに、水タンク底板の台枠鋳物取付部の板厚を9㍉から12㍉としつつ、内側にも当板を設置するもので、炭水車は補強と軸受の素材見直しにより問題は解決しています。
なお、D5270号機下関機関区で活躍しますが終戦となり1945年11月に小郡機関区へ転属し翌月:1945年12月には新鶴見機関区へ移動しました。

1953年5月、浜松工場へ入場し、戦時形装備の改装工事と炭水車をD52453(ストーカー装着済)のものと交換しています。