菅谷館(菅谷城)は、現在の埼玉県比企郡嵐山町にあり、都幾川と槻川の合流点「二瀬」を見下ろす台地の縁辺部に複数の郭を配して築かれた平城で、菅谷館として畠山重忠が暮らしていたと伝えられている。
畠山氏は北武蔵の名族・秩父平氏の系譜をひき、重忠は、1164年(長寛2年)に生まれ、1180年に源頼朝が石橋山に挙兵した際には平家方として戦い頼朝方の三浦氏を討った、その後頼朝に仕えてからは、鎌倉入りの際に先陣を務める、宇治川の合戦や一の谷の合戦、奥州藤原氏の征討などで手柄をたてたが、北条氏の陰謀により1205年、42歳で死去。
菅谷城は、本郭、二ノ郭、三ノ郭、西ノ郭、南郭(仮称)の5つの部分からなる。郭内部にあったと考えられるいろいろな建物や井戸などはすべて地表下に埋没。
「比企城館跡群 菅谷館跡」として国指定史跡に指定されている。続日本100名城の一つ。
本郭
東西150メートル、南北約60メートルの長方形の郭で、ここに畠山重忠の館があったといわれている。
イ 二ノ郭
東西約250メートル、20~50メートルの細長い形の郭。
畠山重忠像
ウ 三ノ郭
東西約260メートル、南北130メートルの長方形の郭で、館跡内で一番広い郭。現在、県立嵐山史跡の博物館がある。発掘調査の結果、建物跡や井戸跡などが見つかり、その一部を本館南側の芝生の中に復原標示してあります。この郭は、二ノ郭へ至る重要な郭のため、「折」や「出枡形土塁」などを多用して、防備を厳重にしています。
正坫門と木橋の説明板
エ 西ノ郭
館跡の北西部分に当り、大手門跡と伝えられる小口があり、往時は城の玄関に当る場所であったと考えられている。郭は東西約130メートル、南北約70メートルの長方形。
オ 南郭
本郭より一段低い位置に設けられた腰郭で、東西約110メートル、南北約30メートルの長方形をした小さな郭。
ア 土塁と堀(空堀)
土塁は、敲き土塁(異質の土をたたきながら交互に積み重ねて固めた土塁)が主。
掘は、空堀と泥田堀の2通りを使っていた。堀の断面の形は箱薬研堀と考えられ、その規模は上幅約12メートル、下幅約3メートル、深さ5メートルほど。
嵐山史跡の博物館にて
比企地区の城館跡群