桑名くうしゅうと六華苑

きのうのブログ記事にかいたとおり、2020年8月25日、桑名の六華苑(ろっかえん)にいってきただけど、いくきっかけになったのが1年まえ、2019年7月23日ちゅうにちゆうかんにのった「桑名くうしゅう74年ルポ」っていう記事。要約するとこういうことだ。

大東亜戦争末期の1945年、桑名は6回もくうしゅうをうけた。とりわけ7月17日と7月にじゅうよっかのくうしゅうがはげしかった。六華苑は当時諸戸清六邸だっただけど、くうしゅうにそなえてにわにおおきな防空壕をつくった。私的防空壕だ。予期したとおり、諸戸清六邸もくうしゅうの被害をうけた。にわのいけに爆弾がおちて、いけぞこにおおあながあいた。ほれと、爆風で洋館のくるまよせもふきとばされた。くるまよせが再建されたのは、たてもんが市に移管されたあとの1993年のこと」。

いや~、観光客には、地下の防空壕もいけぞこのおおあなもめにはいらんし、洋館のくるまよせも、みためにはあとで再建したようなかんじはないだけど、あとひとつきもまたんで戦争がおわるってときに、こんなかなしいことがおこっとっただ。

記事の全文はつぎのとおり。

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桑名くうしゅう74年六華苑ルポ

(2019年7月23日 - ちゅうにちゆうかん)

三重県桑名市がほこる観光名所「六華苑(ろっかえん)」。くにが名勝に指定する庭園や、貴重な近代建築としてくにの重要文化財となっとるたてもんがおおくの観光客をたのしませるいっぽう、防空壕など戦争のつめあとものこる。市街地がやけのはらとなった桑名くうしゅうから74年。被害がおおきかった7月にじゅうよっかをまえに優雅な苑内をあるきながら、ちょっとだけ平和についてかんがえた。
(谷村卓哉さん)

名所にねむる戦争のかげ

六華苑は、実業家としてなをはせた2代め諸戸清六(もろとせいろく)1888年~1969年)の邸宅として、1913年に完成。鹿鳴館の設計で有名なイギリス伊zん建築家ジョサイア・コンドルが建設にかかわり、4層の塔屋をもつ木像2階だての洋館や和館、池泉回遊式庭園などがある。明治大正期を代表する文化遺産としてしられ、1990年に諸戸家が市にたてもんを寄贈。翌年、しきちを市が購入した。

【図:苑内案内図、防空壕立体図】
【写真:コンクリートづくりの防空壕内部/あめのあとで、そこにはみずがたまっとった】

天井に通気あな、堅固な私的防空壕

防空壕は、苑内にしがわのもりのなかにある。そばを散策路がとおるが、いりぐちは鉄板でふさがれ、きづかずとおりすぎてしまうひともおおいはずだ。ふだんは非公開だが、とくべつに許可をえてなかにはいった。

「ああ、やはり・・・。つゆどきはだめですね」。文化財保護を担当する市観光文化課の水谷芳春主観がざんねんそうにはなした。ながぐつをはいて8段の階段をおりると、10センチほどあまみずがたまった暗黒のコンクリートべやにたどりついた。いりぐち付近には、とびらがあったことをしめすきわくや、電球のスイッチのあとものこされとった。

へやはおくゆきおよそ5.8メートル、はばおよそ1.9メートル、たかさおよそ2メートル。おとなが20人ていど、にげこめるだらあか。天井には電球の設置あとと地上につうじる通気あながふたつ。ちかくのいけへぬける排水溝もそなわる。かべのあつさは不明だが、階段のコンクリートかべのはばは17センチもあり、ひじょうに堅固な防空壕だとわかる。

清六がくうしゅうにそなえて計画的につくらせたのはまちがいなく「本人やたいせつな使用人の私的な防空壕だった可能性がある。時間とおかねがかかっており、政財界とふといパイプのあったかれた、戦況をきちんと把握しとったのでは」と水谷主幹はみる。

桑名くうしゅう
太平洋戦争末期の1945年、戦闘機の部品などを製造する大規模な軍需工場があった当時の桑名市は、アメリカ軍のくうしゅうを計6回うけた。とくに7月17日、にじゅうよっかのくうしゅうははげしく、焼夷弾(しょういだん)や1トン爆弾などで市内は壊滅状態に。桑名くうしゅう遺族会によると、1平方キロメートルあたりの爆弾投下量711トンは全国最多という。警察のまとめなどによると、657人が犠牲になった。

桑名くうしゅうでは軍需工場のほか、交通の大動脈である伊勢大橋と国鉄近鉄の鉄橋がちかい六華苑周辺も標的に。しずかにみずをたたえるいけにも爆弾がおち、そこにはおおあなモルタルでふさいだ補修のあとがのこる。2012年8月のしゅんせつ作業で、それがくっきりあらわれた。たてもんでは、和館のはりが衝撃でおれたという証言も。象徴的な洋館は爆風でくるまよせが倒壊し、1993年に市が忠実に復元するまでながらくなかった。

【写真:爆弾投下でできたおおあなをモルタルでふさいだ補修あと/いけのみずをぬくとすがたをみせる】
【写真:ちかくにおちた爆弾の爆風で倒壊し、市が復元するまでなかった洋館のくるまよせ】

茶会や作品展、雅楽公演など文化的行事が年中ひらかれ、人気の食堂も隣接して年間5万人の観光客でにぎわう六華苑。平和な光景に、石棺のような防空壕をはじめとする戦争のかげが、いまなお同居しとった。

2019.7.23 ちゅうにち「桑名くうしゅう74年六華苑ルポ」 1455-2415

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(さんこう)

  • 桑名からかえる - 2020年8月25日 - おぼえがき(ゆめてつどう)|2020/08/28
  • 六華苑、七里のわたし、東海道 - 桑名のたび - あきひこゆめてつどう|2020/08/27
    • いりぐちは洋館のひがしがわ。くるまよせのあるとこ。こっからはいって、ほのままおくにすすむとにほん家屋につながる。
      2020.8.25 (18) 六華苑 - 洋館(くるまよせ) 1460-2000
    • 一のまのつぎのま。にしから「一のま」、「一のまのつぎのま」、「二のま」、「二のまのつぎのま」ってよっつおおきなへやがならぶうちのふたつめのへや。
      2020.8.25 (28) 六華苑 - 和館(つぎのま) 2000-1500
    • ところで1年まえのちゅうにちに、「名所にねむる戦争のかげ - 桑名くうしゅう74年六華苑ルポ」っていう記事があって、ほれをみてきょうきただけど、記事にかいてあった防空壕とかはどこにあるのか。館員さんにきいてみると、地図をくれてばしょをしめしてくれるだけど、なんせ地下にあるもんで、いってもわからんとのこと。まあ、こいだけの豪邸になると、しきちのなかにじぶんとこ専用の防空壕をつくっとったってことだ。さらに館員さんはおしえてくれる。しきちないのたてもんのうち、洋館のくるまよせと内玄関棟だけは再建したもんだとのこと。洋館のくるまよせはくうしゅうの爆風でこわされたとのこと。ついでに、内玄関棟からひがしにみえる半円形のたてもんはなにかってきいてみると、レストラン Rocca だっていう。あいにくきょうだけ臨時休業とのこと。
  • 桑名でひるごはん - 2020年8月30日 - あきひこのいいたいほうだい|2020/08/30 〔ついか〕
    • 六華苑を見学。いけのほとりに防空壕があるのもかくにん。くうしゅうにそなえて、諸戸清六がつくった私設防空壕だ。
      2020.8.30 (2) 六華苑 - 防空壕 2000-1500
    • 七里のわたしのちかくに、歌行灯句碑を発見。
    • 歌行灯でひるごはん。おれは肉みそなす冷麺膳。つまは清流歌行灯御膳。ごちそうさまでした。
    • はらごしらえができたとこで、桑名市博物館を見学。
    • さいごに九華公園をさんぽ。桑名城のあとを公園にしたもんで、一角に初代藩主本多忠勝像がたっとるのをかくにん。