東映の危機に五島は撮影所のスタッフを前に演説した。
「この位の赤字は、船一艘を沈めたと思えば大した事はない。
皆さんは、一生懸命に働いて欲しい。
この撮影所が天下一になるまでは五島慶太、再びこの門を潜らないであろう」
と言い放った。
しかし実際の所、五島には東映の経営はどう思案しても答えは出なかった。
悩みに悩んだ五島は、腹心の大川を呼んだ。
「この苦境を凌ぐには、君の手腕をもってしかない。
東映の社長をやってくれ」
と・・・
大川は固辞したが、五島は許さなかった。
とんだお鉢が廻って来たものである。
しかし、大川は既に東映の事は調査していたのであった。
後にこう語っている。
「実を言うと、私は五島さんから初めてお話があると、直ちに映画事業の客観的な分析に取り掛かっていた。
そうして、3社の業績不振が如何なる所に根ざし、経営の不合理が如何なる点に潜むかを徹底的に追究した」
大川が映画撮影に於いて取った再建手法は、1本辺りの製作費の上限確定と各映画の興行収益目標の設定をした。
そして、利益目標を徹底した事だった。
昭和27年には市川右太衛門の『江戸恋双六』がヒットし、以降、月1本のぺースで制作される様になった。
昭和28年1月、『ひめゆりの塔』が封切られた。
今井正監督、津島恵子、香川京子ら若手女優を起用し、日本映画始まって以来の配給収入が得られたのである。
【ひめゆりの塔。 Wikipediaより】
東映は、時代劇『ひめゆり』のお蔭で、借入金を返済した。
更に全国に170の専属館、1700の上映館を持つに至った。
一躍業界のトップに躍り出る快挙を成し遂げたのである。
大川は僅か2年で、東映の収支を黒字に転換したのであった。
この時の五島の喜びは如何ばかりか大きく、
「大川に依って東映は救われた。
同様の意味で、彼は東急の大恩人である」
と、最大の賛辞をもって、大川に報いたのであった。
これで名実共に大川は東急のナンバー2となったのである。